岐阜をつくねる⑤ 信長のおもてなし都市


キムタクが岐阜に現れたとき、
JR岐阜駅の信長像は赤いマント

岐阜市制120周年記念の2009年9月、
「信長公の銅像を贈る会」
により設置されたもので、
高さは台座を含め11m。
信長公自身は3mなんだそうです。

この像のミニチュアは岐阜城周辺でも
いたるところにみられて…
こちらは"岐阜公園総合案内所"のもの

すぐ近くの"岐阜市歴史博物館"にも
ガラスケースに収められていました。

神戸市立博物館所蔵
束帯姿で上畳に座する肖像画は、
右手に笏を持ち、左脇に腰刀を佩く。
1583年(天正11)の信長一周忌のために
制作されたことが古溪宗陳の賛から
わかるものでして平成の解体修理で、
織田家の家紋の"木瓜紋"がクッキリと。
安土城内にあった摠見寺伝来品です。

岐阜城入城後の信長は、
城の大改造に着手…
山麓では比類ない巨大庭園を持つ
迎賓館が造られたことが、
発掘調査により確認されています。
かのルイス・フロイスは、
山麓の建物を"宮殿"と称し、
"地上の楽園"のようだと…
金華山や長良川の美しい眺望を
活かした"おもてなし空間"を
創出していったのです。

おもてなしの拠点"山麓居館"で、
建物や庭の見学、踊りと歌、
オヤツや食事などなど。
名物茶器拝見のため訪れた
津田宗及は彼のためだけの
茶会の席がもたれたとか。

堺町衆の宗及の扱いは破格で、
食事の給仕は信長の息子信雄、
ご飯のおかわりを
信長みずからがよそったとも。

楽市楽座の一方で、
川湊の商人に舟木座の結成を
認めるなど柔軟なまちづくり…
フロイスは町には一万人が
住んでいたと記し、
"バビロン"の混雑と表現したとか…


甲斐国武田氏の家臣であった
秋山伯耆守に対しては、
長良川で鵜飼観覧に招いたとか。
武田信玄に気を遣い、
獲れた鮎を自ら確認して
甲府に届けさせています。
信長は「鵜匠」の名称を与え、
禄米十俵を給して保護
したのです。

信長は金華山や長良川、
城下町の賑わいや
鵜飼文化にその価値を見出した。
軍事施設である城に"魅せる"の要素を
加えて饗応を行った
のです。
岐阜は信長自慢の"おもてなし都市"は、
長良川の鵜飼文化をはじめとして、
岐阜城が城としての
役割を終えても受け継がれ、
今も岐阜の町に息づいています。

おもしろうて
 やがて悲しき 鵜舟かな


岐阜を離れ安土の地を求めた信長、
芭蕉の句はその後波乱をも
読み込んでいるのやも知れません。
信長はフロイスとの別れ際
次のように告げていたという。
美濃へは何度でも訪れよ」と…

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