2018年5月4日金曜日

鹿児島群像 大久保利通〜銅像をたどる


維新の三傑の大久保利通
晩年に盟友だった
西郷を追いつめたとか、
自由民権運動を圧したとか…

処世訓「為政清明
世の政というものは、
清廉かつ公明正大に
なしていかねばならない。

大久保利通という人物、
「藩閥政府の中心として
権力をふるった」と見られがち、
大久保の明治新政府で仕事ぶり、
不平等条約の撤廃は悲願。
ただ現実は、
岩倉具視使節団の交渉は惨敗…
欧米諸国の国力の差を痛感し、
国内改革が優先であると主張。

西郷と大久保の手法の違いが、
この頃から際立ってきたようです。
鹿児島では「西郷どんの敵」、
という認識で一致していたことは、
まさに固定観念となったいて、
銅像が建てられること自体、
異論が出続けたそうです。
建てらてたのは没後100年の
1979年のことですが、
今度はどこに造るかで、
大騒ぎになったそうです。
最初は城山の麓、
西郷さんの隣りに…
たとえ西郷さんが許しても
 俺達が許せん」などと意見。
ライオンズ広場が選ばれましたが、
このロケーションはは駅から
市役所やオフィス街への通勤経路。
朝っぱらから勘弁してくれ!」と。
ただ見方を変えると…
大久保らの海外派遣のさなか、
西郷、江藤、板垣らの
いわゆる「留守政府」は、
学制や徴兵制など改革を
強引に進めました。

征韓論」の主張については、
近年さまざまな評価がありますが、
この時期に実際に
海外侵攻ができたかどうか?

新政府の近代化策に対する不満を
高める士族の目を、
海外の新しい敵に
向けさせようとの思惑、
明治政府のアキレス腱で、
あったとも思われます。
西南戦争はまさに
時代の必然であるとも、
考えられますね。
薩摩隼人としては、
結果袂を分けてしまった
西郷と大久保…

ようやく落ち着いて、
二人の足跡を
落ち着いて見つめなおせる
時代が来たということです。
大久保像のそばには
甲突川に「高見橋」。
そこには「母と子供の群像」
1984年に設置されたもの。

橋架け替えの碑文
「高見橋周辺は、江戸時代初期に
甲突川が改修されたのに伴い、
新しい城下町の一つとして
発展したところであり、
なかでも加治屋町は、
近代日本の黎明期に活躍した
西郷隆盛大久保利通
はじめ多くの人々を
輩出したとこであります。」
母の姿は…反対側に
西郷と大久保のことも、
見守っているのやも。
子供たちの姿を向かい側に
見つめているのです。
大久保利通は君民共治だけでなく
民主政治を高く評価したとも。
天皇の統治権の規定した
大日本帝国憲法には、
「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ
 此ノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ」と、
天皇は統治権を総覧しましたが、
運用は制限を付けていたのです。

明治という時代…
日本近代化のステップであると、
大久保は見据えていたのかも、
知れませんね。