2016年7月20日水曜日

甲子園ホテルへ① ライトを受け継ぐもの


「東の帝国ホテル、
 西の甲子園ホテル」

と並び称されたといいます。
日本に残る数少ない
ライト式の建築…
山邑邸」の次はココと。
左右対称の塔には日章旗とともに。

武庫川女子大学 甲子園会館
として、学園旗が翻っています。

女子大学のキャンパスなので、
事前に電話申し込みし、
見学時間に合わせてガイドさんが
案内してくださりました。

開業当時のことは、のちほど。

1944年には川西航空機の施設に、
その後大阪海軍病院として接収。
周辺の空襲は激したかったのだが、
ここは焼け残りました…

「アメリカ人にとって
 アメリカの生んだ巨匠
 フランク・ロイド・ライトの
 面影を残す建築に、
 焼夷弾を向けることが
 できなかったのだろうか。」
と、武庫女の三宅正弘さんは、
書に記されていますが…

ロイドの愛弟子であった
遠藤 新
(えんどう あらた)さんの設計。

今は明治村に移築された、
ライト式建築の代表格
帝国ホテル」との共通項…

山邑邸は、
清酒「櫻正宗」の蔵元の
山邑太左衛門さんですが、
遠藤新は山邑さんちの娘さんと、
大学で同級生の夫人だったそうです。
そんな縁もあったのかもしれません。

帝国ホテル時代からライトを
支えたもう一人が 南 信
彼は甲子園ホテルの強度計算を
受け持って遠藤をサポートします。

帝国ホテルで知られるライトですが、
同ホテルの常務取締役で
当時のホテル界の
第一人者と言われた 林 愛作ともに、
完成前に涙をのんでいます。

相当の予算オーバー、工期の遅れ、
設計変更の嵐などなど、
仕事としては合格点を
もらえるものではありませんでした。
ライトとともに林は、
建築途中で解任されています。

林愛作は甲子園ホテルを、
「客は日本人六七分、
 外人三、四分位と思つてゐます」と、
日本人客を想定していました。

「ホテルに残る回転扉の“おす”
 その表れだと感じます」と、
ガイドさんが教えてくれました。

甲子園ホテルが開業したころは、
日本中でホテル建築ラッシュ
だったとか…

ホテル開業の新聞記事
「このホテルは阪神電車の尻押しで
 前後十三年間も
 帝国ホテルの常務取締役として
 万事を切り廻してゐた
 林愛作氏の経営で」とありました。

そんな触れ込みのなかで、
遠藤新へのプレッシャーは、
相当なものだったでしょう。

ただ一方で…
本家の帝国ホテルは
大阪への進出を決め、
新大阪ホテルの開業に。
いまの大阪・中之島の
リーガロイヤルホテルがそれです。

1945年10月7日。
甲子園ホテルは、
もれなくGHQに接収となります。

アメリカ進駐軍の
将校校舎とクラブとなって、
厨房も動き出すのですが…

コックたちは米軍軍曹と対立、
多くがホテルを去ったとか。


ただ…日本の接収ホテルのなかで、
接収解除となったのは、
1957年12月15日と
極めて遅いものとなります。


帝国ホテル、新大阪ホテル、
富士屋ホテル、日光金谷ホテル
などなどが1954年…
なぜ?こんなに遅れたのかは、
定かでありませんが、
ブランクが長すぎたようです。

接収が解除されたホテルのその後…

1965年に払い下げられた先は、
武庫川学院でした。
学院創設からともに鳴尾村で
同時代をみてきたとの由縁。
1972年に大規模な改修を経て、
甲子園会館として再スタートとなり、
今に至っています。



メインダイニングに残る F・W・L
ライト財団の人が視察された時に、
そう解説されたと伺いました。
遠藤の意識的なものなのかは、
よくわからないとか…

しばし、
ライトの思いがどこにあるか…
探っていきたいと思います。

※このブログは三宅 正弘さん著の
『甲子園ホテル物語
 ―西の帝国ホテルとフランク・ロイド・ライト』
を参考にしています。