現代コミュニケーション論
映画『しゃべれども しゃべれども』に見る
現代コミュニケーション論
こんな題でちょっとしたコラムを書きまして、
先日 勤める大学の冊子に掲載されます。
全文をちと長いですが、先行して。。
このブログでも紹介させてもらいます!!
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「場面緘黙」という言葉あります。家庭では何の問題もなく話すことができるのに、社会不安のために、学校など特定の状況で話すことができない状態を「場面緘黙症」と言うそうです。「ばめんかんもく」と読むそうですが、「講釈たれ」と目される私も幼少の頃は無口な少年でした。いつからこんなに「おしゃべり」になったかは、実のところ思い出せません。
他の人から見れば、「あれだけ言いたいことをしゃべっているので、ストレスとは無縁なのだろう」と思われているのかも知れません。私の分析はともかくとして、「場面緘黙」とは、とにかくしゃべらないし、特定の人としか話さずに自分の考えを言ったり、書いたりすることが苦手なことを言うようです。
2007年5月26日より公開された映画『しゃべれどもしゃべれども』。「コミュニケーションの観点から見る試写会」がアスミック・エース エンターテイメント 株式会社から、大阪のある大学の文学部 現代コミュニケーション学科への提案によって、5月18日に実現しました。
『しゃべれども しゃべれども』は、しゃべりのプロである落語家・今昔亭 三つ葉 と彼のもとに集まったワケあり生徒たちをモチーフに、現代を生きる人間たちに欠如しがちなテーマ=“人と人とのコミュニケーション”の大切さや“想いを伝えること”の尊さを真摯に描いている作品です。 「日頃大学で、現代における人と人とのコミュニケーションの大切さを教え、その際の自国の文化や異文化への理解の意味を強調しているわれわれとしては、今回のお申し出はたいへんありがたかった。」との文学部長のコメントとともに、映画をどう感じたのかの学生の感想を読むと、文学部の現代コミュニケーション学科の方向性が見えてくる契機に なっていくのだと思います。
原作『しゃべれども しゃべれども』は、1926年東京生まれの作家である 佐藤 多佳子 さんの作品です。童話児童文学を綴られていた佐藤さんが初めて書いた大人向けの小説であり、十年以上前に刊行されたものです。落語家の二つ目の青年の希望と不安にあふれた日常、しゃべることにコンプレックスを抱えた人々の苦労と交流、書きたいと思われていた二つのテーマが 結びついた物語は、かつてない難産だったようで、故に佐藤さん自身が愛する作品でもあるそうです。
改革とか変革とかが叫ばれる時代、このままではいけないとの気持ちが特にコンプレックスとして抱え持つ私にとって、「自分をどうにかしたい」「本当に自分を変えられるのだろうか」とのアドバルーンは、何をやってもどうにもならないことの繰り返しで、いつも萎んでしまっていました。一抹の不安が過ぎりながらも、出会って、触れて、そして変わる。自分の中に、足りないもの、補うべきものが見えてくるとき、『人との出会いが出逢いに変わる時』、ひょんなきっかけで『自分らしさ』が見えてきたように感じます。
「ここで会ったが百年目、盲亀の浮木(もうきのふぼく)、優曇華(うどんげ)の華」という講談の決まり文句があります。 「ここで拙者に遭ったのが貴様の運のつき、観念しろ」というような使い方になります。「福徳の百年目」とは、めったにない幸運な出来事に出会ったときのことで、「めったにない好機」という意味もあります。捜していた敵を見つけた時に発するべき言葉ですが、「運命の人との出逢い」に私はこの文句が浮かんできます。ちなみに、「盲亀の浮木」は目の不自由な亀が海を泳いでいる内に浮いている木切れの節穴から顔を出してしまうこと。「優曇華の華」は、仏典に出て来る伝説上の花で3000年に一度しか咲かず、これが咲いたときには偉い人が生まれてくるとされています。「千載一遇」のチャンスということです。
コミュニケーションという言葉に戻ります。「コミュニケーション能力」重視というキーワードは、 中央教育審議会=中教審答申で「基本的な考え方」への経過報告のなかで、コミュニケーションに関して突っ込んだ議論がなされたことで、お題目のように問われるようになっています。日本経済新聞(2006年2月27日)によると日本経済団体連合会が会員企業を対象に実施した2005年度新卒者採用アンケートで、選考で重視した点(複数回答)で最も多かったのは「コミュニケーション能力」(75.1%)だったといいます。企業側が従来から要求しているコミュニケーション能力はともすれば抽象的だったり、技術的な内容だったりしてきたようですが、果たして「コミュニケーション能力」を養成するって何なのでしょうか。
国際学力到達度調査の結果などから学力の「二極化」が 進行していると分析され、子どもたちの読解力や記述力を 再生したい、学力の低下傾向による学習や職業に対して 無気力な子どもの増加を減らしたいという思いが、 「読み・書き・計算」という基礎学力対策重視に終始せず。 コミュニケーション能力の基礎である「言葉の力」を 国語から解放され、伝え方だけでなく、何を伝えたいのか という「コミュニケーション力(ぢから)」が欲せられている のだと思います。
時代はITからICTという段階に入ってきています。 移動体通信網の整備、固定通信網の高速大容量化などのインフラと、それらを支える技術の飛躍的進歩によって、 インターネットを中心とした通信ネットワーク網を生活や ビジネスなどに活用はめざましく、どこまで行ってしまうのかという心配さえ、吹き飛ばす勢いです。コミュニケーションツールの申し子である携帯電話が登場してから、どこでもつながる便利さと不便さに悩まされる日々。メールについても、携帯メールの普及で文字を伝える機会が増えたのも、人類始まって以来、経験したことの無い段階にあります。
2007年6月に公開された映画『きみにしか聞こえない』には、今時にめずらしくケータイを持っていない女子高生「リョウ」が登場していました。傷つきやすく内気な友だちのいない彼女に、ある日、公園で拾ったおもちゃのケータイから着信音が鳴り、見知らぬ青年「シンヤ」との空想の電話が繋がりました。語りあうことでお互いの心強い味方になっていき、遠く離れていても、いつでもそばにいる二人には、いつでも繋がるコミュニケーションである携帯電話が、かけがえのない場になっていく様子が描かれている作品でした。
この映画に登場する<頭のケータイ>は、親とでも友人とでも、漠然と話をしていることで、ケータイが当たり前の時代になって、慣れっこになっている感覚では、聞くことも話すこともできなく 研ぎすまされた感覚の下ではじめて繋がるものとして描かれています。通じ合えるという人がいて、初めて成立するという<頭のケータイ>は、人と人との気持ちの大切さによるものなのだと思います。
『しゃべれども しゃべれども』の映画では、原作小説では主人公の 今昔亭 三つ葉 から「黒猫」と形容されるヒロイン 十河 五月 が、人付き合いが苦手で、いつもぶすっと無愛想な顔をしていました。だんだんと、三つ葉の落語の指導を受けるうちに、少しずつ自分の感情を表現できるようになり、三つ葉に見せつけるように クライマックスでは、古典落語「火焔(かえん)太鼓」を演じました。ラストシーンで、三つ葉にやっと言いたいことを伝えられた時、最高の笑顔が大きくスクリーンに映し出されていました。
しゃべれども しゃべれども
気持ちを伝えられず
しゃべれども しゃべれども
" 想い " に言葉は敵わない
しゃべれども しゃべれども
伝えたいことは ただひとつ
何かを 誰かを
「好き」 という想い
ただ それだけ
五月が想いを伝えた時「最後までためにためて、生まれた笑顔」その一瞬に、伝えたいメッセージ「好き」という万感の想いがこもっています。
現代コミュニケーション論
こんな題でちょっとしたコラムを書きまして、
先日 勤める大学の冊子に掲載されます。
全文をちと長いですが、先行して。。
このブログでも紹介させてもらいます!!
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「場面緘黙」という言葉あります。家庭では何の問題もなく話すことができるのに、社会不安のために、学校など特定の状況で話すことができない状態を「場面緘黙症」と言うそうです。「ばめんかんもく」と読むそうですが、「講釈たれ」と目される私も幼少の頃は無口な少年でした。いつからこんなに「おしゃべり」になったかは、実のところ思い出せません。
他の人から見れば、「あれだけ言いたいことをしゃべっているので、ストレスとは無縁なのだろう」と思われているのかも知れません。私の分析はともかくとして、「場面緘黙」とは、とにかくしゃべらないし、特定の人としか話さずに自分の考えを言ったり、書いたりすることが苦手なことを言うようです。
2007年5月26日より公開された映画『しゃべれどもしゃべれども』。「コミュニケーションの観点から見る試写会」がアスミック・エース エンターテイメント 株式会社から、大阪のある大学の文学部 現代コミュニケーション学科への提案によって、5月18日に実現しました。
『しゃべれども しゃべれども』は、しゃべりのプロである落語家・今昔亭 三つ葉 と彼のもとに集まったワケあり生徒たちをモチーフに、現代を生きる人間たちに欠如しがちなテーマ=“人と人とのコミュニケーション”の大切さや“想いを伝えること”の尊さを真摯に描いている作品です。 「日頃大学で、現代における人と人とのコミュニケーションの大切さを教え、その際の自国の文化や異文化への理解の意味を強調しているわれわれとしては、今回のお申し出はたいへんありがたかった。」との文学部長のコメントとともに、映画をどう感じたのかの学生の感想を読むと、文学部の現代コミュニケーション学科の方向性が見えてくる契機に なっていくのだと思います。
原作『しゃべれども しゃべれども』は、1926年東京生まれの作家である 佐藤 多佳子 さんの作品です。童話児童文学を綴られていた佐藤さんが初めて書いた大人向けの小説であり、十年以上前に刊行されたものです。落語家の二つ目の青年の希望と不安にあふれた日常、しゃべることにコンプレックスを抱えた人々の苦労と交流、書きたいと思われていた二つのテーマが 結びついた物語は、かつてない難産だったようで、故に佐藤さん自身が愛する作品でもあるそうです。
改革とか変革とかが叫ばれる時代、このままではいけないとの気持ちが特にコンプレックスとして抱え持つ私にとって、「自分をどうにかしたい」「本当に自分を変えられるのだろうか」とのアドバルーンは、何をやってもどうにもならないことの繰り返しで、いつも萎んでしまっていました。一抹の不安が過ぎりながらも、出会って、触れて、そして変わる。自分の中に、足りないもの、補うべきものが見えてくるとき、『人との出会いが出逢いに変わる時』、ひょんなきっかけで『自分らしさ』が見えてきたように感じます。
「ここで会ったが百年目、盲亀の浮木(もうきのふぼく)、優曇華(うどんげ)の華」という講談の決まり文句があります。 「ここで拙者に遭ったのが貴様の運のつき、観念しろ」というような使い方になります。「福徳の百年目」とは、めったにない幸運な出来事に出会ったときのことで、「めったにない好機」という意味もあります。捜していた敵を見つけた時に発するべき言葉ですが、「運命の人との出逢い」に私はこの文句が浮かんできます。ちなみに、「盲亀の浮木」は目の不自由な亀が海を泳いでいる内に浮いている木切れの節穴から顔を出してしまうこと。「優曇華の華」は、仏典に出て来る伝説上の花で3000年に一度しか咲かず、これが咲いたときには偉い人が生まれてくるとされています。「千載一遇」のチャンスということです。
コミュニケーションという言葉に戻ります。「コミュニケーション能力」重視というキーワードは、 中央教育審議会=中教審答申で「基本的な考え方」への経過報告のなかで、コミュニケーションに関して突っ込んだ議論がなされたことで、お題目のように問われるようになっています。日本経済新聞(2006年2月27日)によると日本経済団体連合会が会員企業を対象に実施した2005年度新卒者採用アンケートで、選考で重視した点(複数回答)で最も多かったのは「コミュニケーション能力」(75.1%)だったといいます。企業側が従来から要求しているコミュニケーション能力はともすれば抽象的だったり、技術的な内容だったりしてきたようですが、果たして「コミュニケーション能力」を養成するって何なのでしょうか。
国際学力到達度調査の結果などから学力の「二極化」が 進行していると分析され、子どもたちの読解力や記述力を 再生したい、学力の低下傾向による学習や職業に対して 無気力な子どもの増加を減らしたいという思いが、 「読み・書き・計算」という基礎学力対策重視に終始せず。 コミュニケーション能力の基礎である「言葉の力」を 国語から解放され、伝え方だけでなく、何を伝えたいのか という「コミュニケーション力(ぢから)」が欲せられている のだと思います。
時代はITからICTという段階に入ってきています。 移動体通信網の整備、固定通信網の高速大容量化などのインフラと、それらを支える技術の飛躍的進歩によって、 インターネットを中心とした通信ネットワーク網を生活や ビジネスなどに活用はめざましく、どこまで行ってしまうのかという心配さえ、吹き飛ばす勢いです。コミュニケーションツールの申し子である携帯電話が登場してから、どこでもつながる便利さと不便さに悩まされる日々。メールについても、携帯メールの普及で文字を伝える機会が増えたのも、人類始まって以来、経験したことの無い段階にあります。
2007年6月に公開された映画『きみにしか聞こえない』には、今時にめずらしくケータイを持っていない女子高生「リョウ」が登場していました。傷つきやすく内気な友だちのいない彼女に、ある日、公園で拾ったおもちゃのケータイから着信音が鳴り、見知らぬ青年「シンヤ」との空想の電話が繋がりました。語りあうことでお互いの心強い味方になっていき、遠く離れていても、いつでもそばにいる二人には、いつでも繋がるコミュニケーションである携帯電話が、かけがえのない場になっていく様子が描かれている作品でした。
この映画に登場する<頭のケータイ>は、親とでも友人とでも、漠然と話をしていることで、ケータイが当たり前の時代になって、慣れっこになっている感覚では、聞くことも話すこともできなく 研ぎすまされた感覚の下ではじめて繋がるものとして描かれています。通じ合えるという人がいて、初めて成立するという<頭のケータイ>は、人と人との気持ちの大切さによるものなのだと思います。
『しゃべれども しゃべれども』の映画では、原作小説では主人公の 今昔亭 三つ葉 から「黒猫」と形容されるヒロイン 十河 五月 が、人付き合いが苦手で、いつもぶすっと無愛想な顔をしていました。だんだんと、三つ葉の落語の指導を受けるうちに、少しずつ自分の感情を表現できるようになり、三つ葉に見せつけるように クライマックスでは、古典落語「火焔(かえん)太鼓」を演じました。ラストシーンで、三つ葉にやっと言いたいことを伝えられた時、最高の笑顔が大きくスクリーンに映し出されていました。
しゃべれども しゃべれども
気持ちを伝えられず
しゃべれども しゃべれども
" 想い " に言葉は敵わない
しゃべれども しゃべれども
伝えたいことは ただひとつ
何かを 誰かを
「好き」 という想い
ただ それだけ
五月が想いを伝えた時「最後までためにためて、生まれた笑顔」その一瞬に、伝えたいメッセージ「好き」という万感の想いがこもっています。