祇園山鉾を歩く(1)船鉾:長江家

コンチキチンと言えば

『祇園祭』ですえ。

大阪くらしの今昔館
ボランティアの集い
町家衆研修見学会
京都の町家を歩いて来ました!!

鉾の中でもユニークな
かたちをした『船鉾』
出す町にある町家が
 「長江家」さんです。







『船鉾』
「ふなぼこ」ではなく
「ふねぼこ」と呼びます。

神功皇后をめぐる説話を
   題材にしているから、
 船型なんだとか。。







『日本書紀』
に記されれている
神功皇后 の 新羅出船の説話が由来。。
新羅進攻のとき臨月であった皇后は、
目的を遂げるまで出産しないよう、
 石を腰に結えつけて出陣。
 無事に筑紫へ帰ってから男子を生んだという。

神功皇后
の外征の説話の状をうつし、
 神功皇后と陪従する住吉明神鹿島明神
 水先案内をつとめる
龍神安曇磯良 (りゅうじん・あずみ・いそら)

     の四神像の人形を乗せている。

天下無敵の三神には共通した信仰があります。
 水と農事に関するもので、わたしたちの生活のなかには、
 水利、水運、農耕が深く根付いているということです。


『船鉾』の同航者たちはまさに、
 水の神のオールスターちうわけです。


船首を飾るのは
「鷁(げ き)」

  と呼ばれる鳥、
は風に強く、
  水難を避け、

龍頭とともに
貴人の御座船に飾る
  瑞鳥だとか。。












『船鉾』の真正面に位置する旧家、
「長江家」住宅は、
「鰻の寝床」といわれる京都特有の縦長の町家です。
伝来の宝物を虫干しを兼ねて公開する「屏風祭」のなかでも、
 母屋を別に持たれているので、ほぼ全部を公開されていました。






採光や、風通し、防犯、防火に
  対する工夫がここかしこに
       施されています。

寝床の奥にある漆喰の蔵は、
万一の時の延焼を食い止めるもの。
厨子2階型の表の店舗部も実は、
向かえのウチからの
   延焼がこの高さだと、

炎が舞い上がるだけで
    及ばないんだとか。。





昔の人って経験をじっくり活かすから、
 現代の計算でも証明される。ということなんですな。
職住のスペースをさりげなく仕切っているところは、
 今の生活にも参考に出来るところは沢山ありそうです。


飾られていた主な屏風は、
四条界隈に住まっていた
京都画壇「四条派」のもので、

虎次郎 のお気に入りは、

「相撲の図」
  
「負けてこそ
 勝手覚ゆる 角力かな」







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◎祇園祭の由来と歴史
 平安時代前期の869(貞観11)年、京で疫病が流行した際、
 広大な庭園だった神泉苑(中京区)に、
 当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、
 祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて災厄が取り除かれるよう
 祈ったことが始まりとされる。
 応仁の乱(1467−77年)で祭りは途絶えたが、
 1500(明応9)年に町衆の手で再興された。
 以後、中国やペルシャ、ベルギーなどからもたらされた
 タペストリーなどを各山鉾に飾るようになった。
 これらの懸装品の豪華さゆえに、山鉾は「動く美術館」とも呼ばれる。
 江戸時代にも火災に見舞われたが、
 町衆 の力によって祭りの伝統は現代まで守られている。
 現在、巡行に参加している鉾は9基、山は23基だ。 
                  (京都新聞 祇園祭2006より)

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