iza KAMAKURAⅡ 義経の腰越状


その昔 鎌倉に通じる
関所のあったところ…
平家を壇ノ浦で滅ぼした
立役者であるはずの源義経
なぜか兄・頼朝の不興を買い
鎌倉入りを拒まれて
涙をのんだ地が"腰越"。

江ノ島電鉄は基本4両編成なのに、
ホームは3両分しかない、
鎌倉行だと先頭車両のドアは
開かないという奇小な腰越駅

ホームの先は道路併用軌道…

腰越駅を降りて5分ほどの踏切を渡ると…



満福寺という小さな寺が現れる。
踏切を渡るとすぐに石段…

真言宗寺院古刹「龍護山満福寺」。
創建は744年(天平16)…

相模第21ヶ所霊場であり、
本尊は薬師三尊。
奈良時代関東に悪病気が流行し、
聖武天皇命により行基
祈りを奉げ病気を治める寺を
建てたことが興りとされています。

源義経は、幼名牛若丸
のちに九郎判官と称した。
源頼朝の異母弟にあたる。
1180年(治承4)兄 頼朝の挙兵に参じ、
1184年(元暦元)兄 源範頼とともに
源義仲を討ち入洛し
摂津一の谷で平氏を破る…

"弁慶の腰掛石"
弁慶の腰掛石というのは各地にあり、
和歌山県田辺市の八坂神社近くの、
「弁慶腰掛の岩」
人が座ったような窪みがあるとか…
男子が誕生すると、
弁慶のような立派な子に育つようにと、
座らせる風習が遺るそうです。

こちらは"弁慶の手玉石"
神奈川県藤沢市の白旗神社には、
弁慶の力石」力比べをしたという。
兵庫県三木市の「弁慶の足跡」は、
一ノ谷の戦いで平氏を追いかけた…
ちなみに白旗神社には、
首実検を終えた義経と弁慶の首が
鎌倉から飛んできたとか。


本堂彫刻にも"腰越状"のシーン。
壇ノ浦に平氏を壊滅させたが、
頼朝との不和が深まり、
鎌倉入りを拒否され腰越に逗留
頼朝の勘気を晴らすため、
大江広元にとりなしを依頼する手紙。
平家物語』巻第十二 腰越には
次のように記されています。

「さればにや、去んぬる夏のころ、
 平家の生捕どもあひ具して、
 関東へ下向せられけるとき、
 腰越に関を据ゑて、
 鎌倉へは入れらる
 まじきにてありしかば、
 判官、本意なきことに思ひて、
 「少しもおろかに
  思ひたてまつらざる
」よし、
 起請文書きて、参らせられけれども、
 用ゐられざれば、判官力におよばず。
 その申し状に曰く、
 源義経、
 恐れながら申し上げ候ふ意趣は、
 御代官のそのひとつに選ばれ、
 勅宣の御使として朝敵を傾け、
 累代の弓矢の芸をあらはし、
 会稽の恥辱をきよむ…」

広元に手渡された正式の書状は
ひねり潰されたのか、
頼朝には届かなかったという。

後白河法皇の義経任官の裏には、
頼朝と義経を仲たがいさせ、
勢力を弱めさせようという
陰謀の匂いも漂います。
「政治音痴で先が読めない」
「判官びいき」

鎌倉殿の13人…でも、
物語としての義経像は、
英雄化され史実をたどることを、
難しくさせているのです。

腰越状から4年後の1189年に
再び満福寺に戻って来たが、
そこで行われたのは"首検め"。
鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には
観る者皆雙涙を拭い、
 両袖を湿す
」と…
ただ伝説は蝦夷・東北北海道に及ぶ…
弁慶の刀掛岩に薪積岩
義経はチンギス・ハーンになった?
ホンマに知らんけど。

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