藤田平太郎の別邸椿山荘① 若冲の五百羅漢像


若冲の石像五百羅漢像
『拾遺都名所図会』
深草石峰寺後山にあり。
 中央釈迦牟尼仏、
 長六尺許の坐像にして、
 周に十六羅漢、
 五百の大弟子囲繞し、
 釈尊霊鷲山に於て
 法を説給ふ体相なり。

 羅漢の像おのく長三尺許、
 いづれも雨露覆なし、
 近年安永の半より
 天明のはじめに至つて
 約莫成就す。
 花洛画工寂中老石面に
 図して指麾す。」

なぜ、
若冲の羅漢像が東京に?
椿山荘東京ホテルのHPによると、
1878年(明治11)
山縣有朋公爵が椿山を購入。
「椿山荘」と命名、
林泉回遊式庭園を作庭。
1918年(大正7)
藤田財閥の二代目当主、
藤田平太郎男爵の所有となる。

椿山荘の人工霧とそして早朝のため…
羅漢の姿はすこし靄ってます。


椿山荘の説明板によれば、
京都伏見の石峰寺にあったものを
 大正14年頃に移された」

と記載されています。
約20体の羅漢像があるとのこと。

なぜ、若冲の羅漢像が東京にあるのか?
石峰寺は明治時代に一時荒廃し、
羅漢像もかなりの数が散逸したとか。

藤田平太郎の妻、藤田富子が記した
『椿山荘記』には、
石像に関する記録が記されており、
大阪の藤田家にあった羅漢像が、
東京の椿山荘に移されたとか。

羅漢像が移されたことは他にも…
若冲没後、ちょうど百年にあたる
1900年(明治30)の京都府知事宛書状の
控写しが残っている。
羅漢献上之儀ニ付御願 
 京都府下紀伊郡深草村石峰寺   
 一當寺境内山上ニ有之石像
 五百羅漢之内数拾壱体
 小松宮殿下御所望ニ付

 取調候処尤モ全体無之且
 大意ニ破摧シ當時
 維持困難ノ折柄幸ヒ
 殿下御所望速ニ献上仕度依テ
 檀信徒及組寺法類等逐協議候処
 双方異儀無之仍而連署ヲ以テ
 上願仕候間何分ノ御指令相成度
 此段願上候也

 明治三十三年六月廿八日
 右石峰寺住職 阪田拙門
 右寺檀信徒総代
  石岡幸次郎 
  玉田安之助
  石田喜助
  雨森菊太郎
 仝 京都府下上京區鞍馬口
   閑臥菴住職 法類 辻無染
 仝 京都府下紀伊郡堀内村
   海宝寺住職 組寺 荒木太觀
 仝 郡仝村 聖恩寺住職
   第十五區 黄檗宗務取締 林田翆巌

京都府知事高崎親章殿」

要訳すると…
石峰寺境内山上にある
石造五百羅漢のうち、
数十一体を小松宮彰仁親王
ご所望につき献上したく、
組寺、法類、檀信徒は
協議し合意したので、
連署をもってお願い申し上げる。

小松宮は羅漢像を譲渡された後、
三年ほど経た1906年(明治36)に
生涯を閉じられています。

小松宮が羅漢所望は明治33年、
その翌年に藤田平八郎と
結婚した富子の記
によると、
「羅漢は古くより
 大阪網島の庭園にありました」
と。
椿山荘の羅漢たちはかなり以前に、
宮とは別の経路を通じて、
深草石峰寺から大阪網島をへて、
大正年間に東京椿山荘へ
移されたのとも思われます。

平八郎と富子の大阪網島の新居は、
日本郵船の大阪支店長だった
吉川泰次郎の屋敷を、
藤田伝三郎が1886年(明治19)に
買い求めて周辺も買い足した
広大な敷地だったそうで、
吉川泰次郎庭に羅漢像は
あったのかも知れません。

いずれにしても石峰寺からの
流出は明治の廃仏毀釈後のこと
あまりきちっと記録がないのも
頷けるのです。

石峰寺は撮影禁止になっています。
その理由はさまざまあるようですが、
あるカメラマンがアングルのために、
羅漢を動かしたとか


椿山荘の庭園は拝観無料、
自由に撮影
することができます。

京都・大阪・東京へと
大きく動かされるとOK
ということなのですね(苦笑)

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