iza KAMAKURA vol.8 鎌倉大仏と文学のこと


鎌倉といえば鎌倉大仏ですね。
鎌倉大仏裏側の観月堂の傍らに、
与謝野晶子の歌碑があります。
「かまくらや みほとけなれど
 釈迦牟尼は
 美男におわす 夏木立かな」

鎌倉大仏は"釈迦牟尼"ではなく、
"阿弥陀如来"なので…

「かまくらや みほとけなれど
 御姿の 
 美男におわす 夏木立かな」

と詠み直した短冊が、
高徳院に残されているのだそうです。

1224年 北条氏の執権政治が確立、
二代執権 義時の後を継いだのは、
嫡男の北条泰時でした。
泰時は晩年に高徳院の建立を
支援するのですが、
建立目的は実ははっきりしません。
頼朝が奈良大仏再建にあたって、
鎌倉にも同じようにと望んだ説

政子らがその意を継いだとされる説
権力争いによる鎮魂のシンボルとした説
どれも諸説の域を出ないのです。

鎌倉幕府の最大の危機といえば、
"蒙古襲来"ですが、世間で噂され
知れ渡っていたのです。
そのキーパーソンは日蓮その人…
天台密教を学んだ日蓮でしたが、
法華経の教えが最優位と確信、
"南無妙法蓮華経"のお題目。

当時広い信仰があった浄土宗は、
"南無阿弥陀仏"をただ只管
「法華経を信仰しないなら
 他国から侵略を受ける
」と、
蒙古襲来を予言していた日蓮

「たらひ舟 荒海もこゆ うたがはず 
 番神堂の灯(ほ)かげ 頼めば」

日蓮が佐渡から赦免され、
嵐に遭い流れ着いた柏崎の番神岬
与謝野晶子の歌碑があるそうです。
鎌倉大仏を"釈迦牟尼"と詠んだのは、
晶子の信仰心によるものなのか…
『吾妻鏡』の記録もふしぎなもの、
深沢の里に金銅八丈の
 釈迦如来の像を鋳はじめ奉る
」と。

話は変わって…
大佛次郎を冠した文学賞…
読み方は「おさらぎ」
横浜生まれの小説家は
"野尻清彦"という本名、
長兄は英文学者の野尻抱影
当初多くの筆名を用いたようですが、
大仏裏に住んでいたときの
筆名が終生続いた
そうです。

で…なぜ「おさらぎ」??
ほんものの大仏が太郎だから、
謙遜して自らは次郎
とした。
北条氏の一族でこの土地に
住むのを大仏と書いて、
こう読んだからとか。
芝居の高時天狗舞に出てくる
陸奥守大仏貞直もその一人。
《大日本名将鑑 北条泰時》
 月岡芳年 1879年

北条得宗家である本家を
補佐する分家を設けられたのは、
"伊賀の方陰謀事件"…
北条泰時の義理の母が、
実子を執権へとの計画を企んだ一件、
政子が計画に加担した三浦氏を説得
離反させることで計画を潰します。
今後北条一族が分裂しないように、
嫡男の泰時以外の兄弟をみな分家に…
その時の分家の一つが"大仏流"
名越流次男 朝時
大仏流の始祖は時房四男 朝直

「大仏の 冬日は山に 移りけり」
立子とは俳人 高浜虚子の次女、
鎌倉高等女学校を経て、
1924年に東京女子大学高等部を卒業。
翌年に星野天知の子息の吉人と結婚、
1931年から鎌倉由比ガ浜に移住。
高浜虚子の句にはこうある…
「大仏に 遠足預け 教師煙草」

津波に流される大仏殿『太平記』より
 神奈川県立金沢文庫

鎌倉の大仏は奈良と違い、
露座されています。
1252年(建長4)に大仏の鋳造が
始まったとされていますが、
不明な点が多いようです…

『太平記』によると、
1334年(建武元)8月3日に、
大仏殿の棟梁が大風で倒れ
軍兵5百余人が圧死したとかで、
1369年(応安2)には大仏殿が倒壊。
1498年(明応7)8月25日の
大地震と津波で大仏殿が再び倒壊、
これにより"露座"となったとのこと。
関東大震災においては台座が沈下、
翌年1月は傾いていた像身が後退、
台座の崩壊が進んだそうです。

鎌倉の自然災害歴史についての、
中世文献学の伊藤一美さんの言葉。
「地震の歴史は
 『吾妻鏡』をくっていくだけでも、
 毎年のように出てきます。
 とくに鎌倉後期の正応の大地震では、
 鎌倉の町中は群発地震が頻発し、
 円覚寺、建長寺などでの
 被害が多数出ています。

 9代執権北条貞時の
  御内人 平頼綱の乱では、
 地震の混乱に乗じて、
 時宗は頼綱を殺しています
 地震はこうした
 政変の引き金にもなりました」


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