iza KAMAKURA vol.2 大蔵御所と鎌倉宮
頼朝墓所、鎌倉宮 案内板の交差、
大蔵御所旧跡の石碑があります。
1180年(治承4)10月、
鎌倉入りを果たした頼朝は、
大倉の地に御所を構えます。
この御所で政治を執ったため、
のちに”大倉幕府”と呼ばれる。
父 義朝の邸があった地が
予定されていたようだが、
義朝菩提の堂宇があり、
狭小であったためこの地を
選んだのだと伝わる。
"鎌倉宮"は明治天皇創建の社。
大塔宮とも呼ばれるのは、
御祭神の護良親王が
京都東山岡崎の法勝寺九重塔
周辺に門室を置いたことに因む。
法勝寺九重塔は"大塔(おおとう)"、
そう呼ばれていたのである。
いわゆる1333年の"建武の新政"、
護良親王は征夷大将軍に…
1334年(建武元年)冬になって、
足利尊氏との対立が激化…
本殿裏には幽閉されていた
土牢が残されています。
生涯を閉じられたのは、
1335年(建武2)のこと、
御年28歳にてご生涯を
閉じられました。
真っ赤な"獅子頭守"、
護良親王が戦いの際に、
獅子頭の小さなお守りを
忍ばせて自らの無事を
祈った事が由縁とか…
こちらは荏柄天神社、
1180年(治承4)の大蔵開府のとき、
鬼門に位置する当社を崇敬、
頼朝が更めて社殿を造立。
その後も崇敬をされて、
『吾妻鏡』には二代 頼家が
大江広元を奉幣使として、
菅公 300 年忌を執行されるなど、
幕府の記録にもみることができます。
福岡の太宰府天満宮、
京都の北野天満宮と共に
三古天神社と称される古来の名社。
荏柄の社号は天平期にみえ、
"荏草郷"の”えがや”が転じ
”えがら”となり荏柄に。
大江広元の墓所…
鎌倉殿の13人のひとり広元。
3つの近世墓がならぶ真ん中、
毛利季光、大江広元、島津忠久、
元は古墳時代後期に造られた
横穴墓であったものを転用し、
江戸時代以降に造営されたもの。
毛利季光は広元の四男、
承久の乱で武功あり…
その手前には、
三浦泰村一族の墓やぐら。
宝治合戦は1247年のこと、
これを契機に北条家の得宗に
権力が集中されることに…
源頼朝の死から25年後、
1224年に北条義時は生涯を閉じます。
『吾妻鏡』では、頼朝の法華堂より
東の山に新たに当時の権力者である
義時の新法華堂が建てられて
葬られたと記録が残っていました。
ただ長くその場所は不明…
法華堂跡の遺構が発見されたのは、
2005年に鎌倉市教育委員会の
発掘調査によるもの。
頼朝の墓の横に義時の墓を造ったのは
北条政子と想像できますが、
義時の人物の重要性がよく分かります。
『吾妻鏡』では1221年(承久3)5月19日、
政子は義時追討の戦時を知った
御家人たちを御簾近くに呼び、
頼朝の恩に報いるよう、
安達景盛を通し彼らを鼓舞したとか。
永井路子さんの『覇樹』1964年 光風社
「ーそうだ、俺たちは、
源家三代のなし得なかった対決を
いま敢えてしようとしているのだ……」
四郎義時は人の先を
読み黙って行動するため、
3つの近世墓がならぶ真ん中、
毛利季光、大江広元、島津忠久、
元は古墳時代後期に造られた
横穴墓であったものを転用し、
江戸時代以降に造営されたもの。
毛利季光は広元の四男、
承久の乱で武功あり…
その手前には、
三浦泰村一族の墓やぐら。
宝治合戦は1247年のこと、
これを契機に北条家の得宗に
権力が集中されることに…
源頼朝の死から25年後、
1224年に北条義時は生涯を閉じます。
『吾妻鏡』では、頼朝の法華堂より
東の山に新たに当時の権力者である
義時の新法華堂が建てられて
葬られたと記録が残っていました。
ただ長くその場所は不明…
法華堂跡の遺構が発見されたのは、
2005年に鎌倉市教育委員会の
発掘調査によるもの。
頼朝の墓の横に義時の墓を造ったのは
北条政子と想像できますが、
義時の人物の重要性がよく分かります。
『吾妻鏡』では1221年(承久3)5月19日、
政子は義時追討の戦時を知った
御家人たちを御簾近くに呼び、
頼朝の恩に報いるよう、
安達景盛を通し彼らを鼓舞したとか。
永井路子さんの『覇樹』1964年 光風社
「ーそうだ、俺たちは、
源家三代のなし得なかった対決を
いま敢えてしようとしているのだ……」
四郎義時は人の先を
読み黙って行動するため、
捉えどころがない人物と
思われていたようです。
しかし、後鳥羽上皇挙兵の報せに
動揺する御家人たちを前に、
重々しい態度で
「上皇こそ御謀叛遊ばされた」と述べ、
大義は幕府方にあると言い
彼らの心をひとつにしたのだとか。
大河「鎌倉殿の13人」でどう描かれるか、
今から楽しみである。
思われていたようです。
しかし、後鳥羽上皇挙兵の報せに
動揺する御家人たちを前に、
重々しい態度で
「上皇こそ御謀叛遊ばされた」と述べ、
大義は幕府方にあると言い
彼らの心をひとつにしたのだとか。
大河「鎌倉殿の13人」でどう描かれるか、
今から楽しみである。