虎次郎おとなの散歩 東福寺 通天橋
東福寺の写真は紅葉に映える「通天橋」が
一番多く親しまれているといってよい。
橋は 「繋ぎ」そして「隔てる」ものだ。
第四代将軍 足利義持が、
あの「三門」の楼上の絵をてがけた明兆に、
絵のほうびとして望むものを尋ねたところ、
明兆は曰く
「これといって格別の欲しいものはありません。
しかし、
東福寺境内に桜を植えるのは禁じて下さい。
桜を植えれば境内は遊興の場となり
禅寺にふさわしくありません。」と…
今でも境内で桜を見つけるのは難しい。
ここに橋が架けられたのは
1380年(天授6)のこと、
春屋妙葩(しゅんおくみょうは、普明国師)が、
法堂から谷を隔てた祖堂へ通う僧侶の
労苦を軽くするためだという。
歩廊入口に掲げられている「通天橋」の扁額は、
普明国師の筆によるもの。
焼失や台風によって再三倒壊に見舞われたそうで、
今架かっているのは1961年のもので、
橋脚部分は鉄筋コンクリート造になっている。
1959年の伊勢湾台風によって倒壊するまでは、
江戸時代の文政年間(1818~30)に
改築されたものが架かっていたそうだ。
架けられた頃の伽藍の状況では、
禅僧たち修行の場である寺域と、
祖師をしのぶ「祖堂」を結んでいた。
生活そのものが修行であった学僧にとっては、
「祖堂」という異界とを繋ぐモノだった。
そして…
桜を避けて楓に包まれた「通天橋」にも、
紅葉狩りという非日常が訪れる。
おそらく1597年(慶長2年)3月の、
豊臣秀吉の付加寄進のときではなかろうか。
この橋にも「室町から安土桃山へ」、
まさに時代の区切りを付けていたのであろう。
禅宗が宗教として域を離れつつある時代となり、
いわゆる「五山僧」と呼ばれる人たちが、
文人としての性格を強めていくようになっていく。
「通天橋」にもそんな変化が訪れていたようである。
こちらは…
江戸時代の天保5年頃(1835年)に描かれた、
広重の浮世絵。まさに遊興の地となる。
一番多く親しまれているといってよい。
橋は 「繋ぎ」そして「隔てる」ものだ。
第四代将軍 足利義持が、
あの「三門」の楼上の絵をてがけた明兆に、
絵のほうびとして望むものを尋ねたところ、
明兆は曰く
「これといって格別の欲しいものはありません。
しかし、
東福寺境内に桜を植えるのは禁じて下さい。
桜を植えれば境内は遊興の場となり
禅寺にふさわしくありません。」と…
今でも境内で桜を見つけるのは難しい。
通天橋より方丈・通天台をのぞむ |
ここに橋が架けられたのは
1380年(天授6)のこと、
春屋妙葩(しゅんおくみょうは、普明国師)が、
法堂から谷を隔てた祖堂へ通う僧侶の
労苦を軽くするためだという。
歩廊入口に掲げられている「通天橋」の扁額は、
普明国師の筆によるもの。
焼失や台風によって再三倒壊に見舞われたそうで、
今架かっているのは1961年のもので、
橋脚部分は鉄筋コンクリート造になっている。
1959年の伊勢湾台風によって倒壊するまでは、
江戸時代の文政年間(1818~30)に
改築されたものが架かっていたそうだ。
架けられた頃の伽藍の状況では、
禅僧たち修行の場である寺域と、
祖師をしのぶ「祖堂」を結んでいた。
生活そのものが修行であった学僧にとっては、
「祖堂」という異界とを繋ぐモノだった。
そして…
桜を避けて楓に包まれた「通天橋」にも、
紅葉狩りという非日常が訪れる。
おそらく1597年(慶長2年)3月の、
豊臣秀吉の付加寄進のときではなかろうか。
この橋にも「室町から安土桃山へ」、
まさに時代の区切りを付けていたのであろう。
禅宗が宗教として域を離れつつある時代となり、
いわゆる「五山僧」と呼ばれる人たちが、
文人としての性格を強めていくようになっていく。
「通天橋」にもそんな変化が訪れていたようである。
こちらは…
江戸時代の天保5年頃(1835年)に描かれた、
広重の浮世絵。まさに遊興の地となる。