太陽の塔1 三つの太陽



















久々に「太陽の塔」の
三つの太陽に逢ってきた!!





「太陽の塔は、
 大きな腕を羽のように
 ゆったりと広げ、
 大屋根に空いた円い穴から
 にょっきりと

 上半身を突き出しながら、
 誇らかに立っていた。
 
 

 上空にキラキラと輝く
 黄金の顔。
 大きな眼をひんむいた
 腹の顔。

 
闇の司祭のような黒い顔。
 三つの太陽を身にまとい、





 夢の未来を
 無邪気に語る会場を

 地上70メートルの
 高みから見下ろしている。

 まるで自分がこの地の
 主であるかのように。」








万博が行われたのは
 1970年!!


虎次郎は当時 三歳。
母の話によると、
かなり万博には
通い詰めたという。
肩車の上から
遠くに見える
「太陽の塔」と、
お祭り広場近くの
地面から吹き出る
噴水ぐらいしか覚えがない。







「太陽の塔」
を間近に見たのは、
おそらく10年以上の前のことだと思う。
平野 暁臣さんの書かれた『岡本太郎』
読み終えたので無性に会いにいきたくなった。



主催者である
博覧会協会が
直接執行された分だけでも
891億円、
関連で行なわれた
公共事業が6500億円、
会期期間中の消費総額が
3300億円だった
 というから恐れ入る。

生産誘発額が
なんと1兆5000億円で、
なんとそのうち1兆円が
大阪周辺にもたらされた。







こんなことってもう二度とない。
大阪はこの万博景気をいつか
リバイバルなんて思ってるから
大阪ダメなんだという経済評論家が
いたのも既に半世紀前の話。
もうすぐ40年を迎える
当時のまさしくオバケプロジェクトだった。

万博を主催するには国際社会の
お墨付きが必要なことは今も変わりなく、
近代化を進めていた当時の日本は
どうしてもやりたかった国際イベントの
2大看板である五輪と万博が行なわれた時代











  公園内の売店内に飾られていた当時のペナント?


今はホントに
そこに「ない」
なんてことは
ありえない存在。

でも当時の
「太陽の塔」は、
異端児そのもので
大屋根を突き破って、
「どこが調和?」
 って感じだった。








EXPO'70のテーマ「進歩と調和」
今考えるとここに「太陽の塔」を建てた
岡本太郎は凄いが、
岡本太郎氏にこのプロジェクトを
任せた当時の気質というものは
奇跡というしかないかも知れない。

「パブリックアートはいいよ。観たくなったら、
 そこに行きさえすれば、いつでも誰でも、
 タダで観られるんだからね。それを観て
 『ああ、いいなぁ』と思ってもいい。
 だけど『なんだ、こんなものつくりやがって!』
 と悪口言ったっていいんだぞ。
 あるいは無視して通り過ぎたっていい。
 芸術とはそういうものなんだ。
 なんでもないもの、道端の石ころと一緒なんだよ」
    



ひさしぶりに再会した「太陽の塔」
どっしりと大阪を眺める姿に変わりはなかった。

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