その手は桑名の焼き蛤① 六華苑 洋館

死ぬまでに見たい 洋館の最高傑作』にも
紹介されていた三重の傑作洋館。
桑名の「六華苑」に行って来ました。
当時の洋風建築は
和館併設がしばしば見られますが、
広大な敷地であえて洋館と和館とを
連続配置してるのは
まさにオンリーワンなのであります。
二代目 諸戸清六の邸宅として
1913年(大正2)に完成の洋館は、
あの「鹿鳴館」の設計で
著名なイギリス人建築家
ジョサイア・コンドルの手によるもの。
車寄せは戦災により消失していたのですが、
当時の図面と写真を基に2014年4月から
復元工事が実施されいたのですが、
腰板・手摺・鎧戸・軒先といった部分も修理、
ほぼ創建当初の輝きが甦ったのだということ。
双柱のルネッサンス洋式、
そしてパラペットの手摺りのデザインが
引き継がれていました。
繊維産業が中核産業の桑名も、
戦争の激しさが強まる中で、
東洋紡績桑名工場も、
兵器産業への転換が図られました。
1944年(昭和19)年には
三菱重工業へ賃貸されて、
航空機の部品工場となったそうです。
格天井の車寄せは
1945年の空襲で焼け落ちたとか。
今回の修復の資料のひとつが、
建設工事中のこの写真とか。
玄関ホールの外扉はステンドグラス
「六華苑」という名前は1993年の開苑時より、
当時の市民公募で決められたのだそうです。
もとは山林王として名高い、
二代目 諸戸清六の新居でありました。
「諸戸清六」の「」と
江戸時代から「九華」を
「くわな」と表したことに因みます。
東北の位置に立つ塔屋は、
当初は3階建ての予定が、
揖保川が見渡せるようにと
4階に変更されたとか。

壁だけでなく
ガラスもループしているのです。
つまり…
湾曲ガラスをわざわざヨーローッパから
輸入してきてはめ込んだのですから、
力の入れ込みようがハンパありません。

階段回りはシンプルかつ
シャープなデザイン。
当時の最先端のデザインであった
英国アーツアンドクラフト
影響なのだとか…

そして手摺りの透し彫りには
「♤スペード」、
下の部分はハート型にみえます。

新婚だった諸戸清六のために考案した、
ジョサイア・コンドルの粋な遊びゴコロは、
マントルピース用の道具にもありました。
ハート型のモチーフは5つあるんだって、
3つしか見つからなかったんだよな(TдT)

1階客間にある天井の白漆喰の飾りは、
ビクトリア風レリーフと呼ばれるものです。

ほぼ全ての部屋には個性的なマントルピース、
客間のマントルピースには暖炉フード。
銅の彫金でアールヌーボー風装飾です。
1階食堂のマントルピースは、
隣の客間とはまた雰囲気の異なる
シックなブラウン系で…


実は調度品は当時のものは
あまり残されてないとか。

当時使われていた家具は、
階段下にあったこれが唯一残るもの。



ガラス窓の付いたサンルーム
庭園が一望できて、
外は寒かったけれども、
日差しが降り注ぎ居心地がよい空間。

サンルームの床もこのほど、
改めて塗装がほどこされたものです。

洋館のなかにも和の設え
ふすま戸」の内側には、
機能的なシステム収納が
使い勝手のよさにも工夫。
置き家具が基本のヨーロッパの設計に、
押し入れと家具が融合されていて、
ジョサイア・コンドルの手腕に感服。

こちらは1階のテラス。
アーガイル模様のタイルは当時非常に
珍しいもので特別に持ち込んだもの。
玄関の土間に加えてトイレの床にも、
統一して敷かれていました。

水道も全国に普及していない時代でしたが、
諸戸清六は私財を投じて
いち早く桑名へ水道を引いた人なのです。
水へのこだわりなのかも知れません、
六華苑には和館も含めて
水洗トイレが設置されていました。

ジョサイア・コンドルは
日本近代建築の父」と呼ばれた人。
約70軒の建物を設計したのですが、
ほとんどが関東地方にあったこともあって、
戦災などで焼失して現存は9棟のみ。
唯一地方都市に遺るのがこの「六華苑」。
まだ生きるけど見てよかったなり(・ω・)v
「六華苑 洋館」
諸戸清六邸 洋館→
建築年:1913年(大正2)
設計:ジョサイア・コンドル
構造:木造2階建て天然スレート葺き
   塔屋4階建て
【国指定重要文化財】

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