とこなめにきたにゃん四 ドカンと一発やってみよう?

常滑って常に滑るって書く。
まさに虎次郎のようで…
なんか懐かしい風景とともに、
再び訪れたい風景がそこかしこに。
細い坂道が無数に走るのだが、
比較的温暖な知多半島でも、
道が凍ることもあるのだろう。
すべり止めとして
埋め込まれた土管たち。
ここのは
ケサワ」ってのが埋め込まれている。
窯の床部分と製品とが接する部分、
敷かれたのが円形のケサワである。

直接火や灰が触れてはいけない
製品を焼成する際に使われた
サヤっていうのは常滑では
エゴロ」って呼ぶそうである。

エゴロは、何度も繰り返し徹底的に再利用…
それでもいずれは使用に耐えなくなった。
それさえも廃棄するのではなく、
連房式登窯の階段部分として使用したそうだ。

ここまで詰めているのは、
きっとオブジェなのだと思うが…

焼酎瓶の製作と同じ技術を用いて、
第二次世界大戦中には塩酸瓶と称される
薬品を入れるための瓶なども作られた。
土管も焼酎瓶も焼成過程において
出荷できない品が生じたのだが、
中空の土管に細かな陶器の端材を詰めて、
徹底的に利活用した。

そして時が移って「土管坂」として
観光資源として再利用ってこと。

1900年頃は土管は
まだ瓦素材だったそうだが、
強度に問題があるため、
横浜にいたブラントンの要望で、
常滑の鯉江方寿に注文が入ったそうだ。

鯉江方寿翁陶像
鯉江方寿(伊三郎1821〜1901年)は、
常滑焼の陶祖と言われる人。
急須作りの中国人の招聘や
美術研究所の開所、埋立て事業など、
常滑の礎を築いたのだそうです。
1916年につくられたものだが、
常滑西小学校ちかくの高台である
この地に移されたのは1921年のこと。
土管の話に戻す。
それから木型で規格化された
土管の技術が広まり、
常滑で広く生産されるようになった。
そこからおよそ100年間は、
生産量日本一を誇っていった。
本当に凄いことである…
今から100年も続く産業が出てくることは、
まずありえ無いかもしれないよね。

ガラスで蓋をして、
金魚鉢にされている土管もあった。

現在塩ビ管やコンクリートの技術が発達し、
土管の受注は少なくなっていった。
2005年には協会も解散してしまったが、
いまなおニーズに合わせ形を変え生産され、
トンネルのケーブルなどを通す物として
現在も利用されているのである。

土管坂の滑り止めピエールさん「常滑焼」。
最中を使ったアーモンドフロランタンです。


お守りは…
すべらない「学業成就」
滑らない 「転倒防止」
そしてスベらない「不滑爆笑」。

2015年
これを付けるからシンパイなしである。

【煙突のある陶都(まち)】より
 杉江南峰 画

参考:
千葉大学大学院 工学研究科デザイン科学専攻
デザイン文化計画研究室
「常滑調査報告書」2009年

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