同志社の赤煉瓦たち② ハリス理化学館
「ハリス理化学館」の完成は
1890年(明治23)7月のこと。
残念なことに新島襄は、その半年前の1月23日、
急性腹膜炎で大磯(神奈川県)にて永眠します。
この建物の完成した姿を
襄は見られなかったそうです。
入口のアーチの上には「SCIENCE」の文字。
アメリカの実業家 J.N.ハリスの援助により、
ハリス理化学校(工学部の前身)の
校舎として建築された煉瓦建築。
高等教育レベルの理科教育機関設立のために、
J. N.ハリスからアメリカン・ボード経由で
寄せられた10万ドルがその建築資金に充てられた。
J.N.ハリス(1815-1896)は、
北米コネティカット州の実業家で、
上・下院議員やニュー・ロンドン市長を務めた。
あるときハリスは同志社理化学館の建設のために、
十万ドルを寄付した理由について下村孝太郎に
つぎように話したことがあるという。
「第一、日本人は深く肝に銘じて恩を忘れず、
思わぬときに旧恩にむくいる風がある。
第二、自分は智恵のあるものを好み、
才能あるものを愛する。
日本人は米国に来ても勉強心が盛んで、
どの学校でも日本人の地位が高い。
それで多年日本のために尽くしたいと思っていた。」
イギリス・ゴシック様式なので...
煉瓦積みも「イギリス積」になってます。
設計はフランス生まれの建築家
アレクサンダー・ネルソン・ハンセル。
ハンセルは旧大阪川口居留地の
新学校の英語教師として来日したそうで、
主として関西を基地に建築家として活躍。
ほぼシンメトリーだがちょっとした遊び心も...
もともとは、
八角形の天文台が屋根の上に載せられていたとか。
1891年(明治24)に起きた濃尾地震のあと、
倒壊を恐れて1893年に撤去され、
今はかつて天文台に通じた階段が残っているとか...
2013年のリニューアルを経て、
「ハリス理化学館同志社ギャラリー」として、
同志社の歴史と創立者・新島襄の今に息づく精神を、
同志社イズムの殿堂となっています。
ただ、ホームカミングデーの時は閉まっていて、
内部の写真がありません…
また改めて訪れたいと思います。
入口のアーチの上には「SCIENCE」の文字。
アメリカの実業家 J.N.ハリスの援助により、
ハリス理化学校(工学部の前身)の
校舎として建築された煉瓦建築。
高等教育レベルの理科教育機関設立のために、
J. N.ハリスからアメリカン・ボード経由で
寄せられた10万ドルがその建築資金に充てられた。
J.N.ハリス(1815-1896)は、
北米コネティカット州の実業家で、
上・下院議員やニュー・ロンドン市長を務めた。
あるときハリスは同志社理化学館の建設のために、
十万ドルを寄付した理由について下村孝太郎に
つぎように話したことがあるという。
「第一、日本人は深く肝に銘じて恩を忘れず、
思わぬときに旧恩にむくいる風がある。
第二、自分は智恵のあるものを好み、
才能あるものを愛する。
日本人は米国に来ても勉強心が盛んで、
どの学校でも日本人の地位が高い。
それで多年日本のために尽くしたいと思っていた。」
イギリス・ゴシック様式なので...
煉瓦積みも「イギリス積」になってます。
設計はフランス生まれの建築家
アレクサンダー・ネルソン・ハンセル。
ハンセルは旧大阪川口居留地の
新学校の英語教師として来日したそうで、
主として関西を基地に建築家として活躍。
ほぼシンメトリーだがちょっとした遊び心も...
もともとは、
八角形の天文台が屋根の上に載せられていたとか。
1891年(明治24)に起きた濃尾地震のあと、
倒壊を恐れて1893年に撤去され、
今はかつて天文台に通じた階段が残っているとか...
2013年のリニューアルを経て、
「ハリス理化学館同志社ギャラリー」として、
同志社の歴史と創立者・新島襄の今に息づく精神を、
同志社イズムの殿堂となっています。
ただ、ホームカミングデーの時は閉まっていて、
内部の写真がありません…
また改めて訪れたいと思います。