大津絵の伝承者たち⑤ 久保田米僊


明治の鬼才と呼ばれた
久保田米僊が描いた藤娘
米僊は1852年(嘉永5)に、
京都市中京区にて
料理屋の一人息子として
生まれました人。

家業を継がねばならない
立場でありながら、
絵筆ばかり握っていたとか…
16歳のとき京都四条派
鈴木百年に弟子入り…
漢学・漢詩を学び、
画業は日本画の伝統に
留まりはしませんでした、
南画や洋画の技法も
積極的に採り入れたそうです。



 

定番の画題も米僊にかかると、
こんな感じで描かれます。

久保田米僊の名は知らずとも、
この絵はご存知でしょう。
とりわけ同志社関係者なら…
近代ジャーナリズムの世界で
久保田米僊は著名な存在、
徳富蘇峰は繋がりがあって、
1月23日に新島襄が亡くなると、
臨終を描いてもらったのです。

平壌乗取之図》日清戦争画報 より

蘇峰が『国民新聞』
創刊したのは1890年のこと、
新島襄永眠の年と同じ年です。
『国民新聞』から日清戦争の
従軍画家として派遣、
日本画家の枠をこえて
名声を高めました。

実はこうした従軍画家
キャリアもあってか、
実作品が美術史研究で
取り上げられることは、
極めて稀だったとか…

米僊の大津絵をみると、
時代に翻弄されずに
描きたかったのでは?
多才であるが故の宿命を
感じさせられます。

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