映画『百日紅』にみる江戸の結界
近ごろよく聞くボーダーレスってコトバ。
しかし何事にも区別があり、
時にはマイナスと思っていることが、
「強み」に転じることがあります。
『百日紅』という映画では、
結界という言葉が何度か登場しました。
「結界」とは俗な世界と
神聖な世界を区切るもの。
それはときには修業の場として、
積極的に必要として求められていて、
山門や鳥居などによって結界を示しています。
[以下 映画ネタバレありですm(_ _)m]
映画中では「もののけなる」ものが、
なんどか登場しました。
応為が描いた地獄絵に気病となる女性、
地獄にも仏を描くことで収まります。
《文昌星図》葛飾北斎 画
北斎の手が夜な夜な伸びて、
いろんなところを駆け巡る。
このままにしておくと…
離れてしまうのではないか。
花魁は首がのびるものがいるとか…
北斎自身のことは、
自分自身の繰り言だと言いますが、
《富嶽三十六景》を観ると、
縦横無尽に飛び回れたから、
こんなのが描けたのやと思いたいのです。
富嶽三十六景のうち
《御厩川岸より両国橋夕陽見》
(おんまやがしより りょうごくばし ゆうひみ)
ちょっと影絵のようにもみえる富嶽の情景。
群青のシルエットとなって浮かぶ富士、
うっすらと染まっていく夕暮れの空。
輪郭線という結界はないけれど、
昼と夜とのはざまを橋が
分け隔てているのかも知れません。
そして…江戸の男たちが、
現実を忘れるために遊びに来た「吉原」。
現世と隔絶されたた夢の異世界は、
華やかで洒落の分かる場所でした。
女性の地位が低かったと
ちょっと俗な話ですが…
応為の夫婦生活のこと。
堤等琳の門人の南沢等明という
人に嫁いだのですが、
天才北斎の画才に加えて…
変人北斎の慎みに欠ける性格を
ちょっと受け継いでしまったようです。
夫の描く絵の拙さを指摘し、
笑ったためが離縁の理由と言われています。
しかし何事にも区別があり、
時にはマイナスと思っていることが、
「強み」に転じることがあります。
『百日紅』という映画では、
結界という言葉が何度か登場しました。
「結界」とは俗な世界と
神聖な世界を区切るもの。
それはときには修業の場として、
積極的に必要として求められていて、
山門や鳥居などによって結界を示しています。
[以下 映画ネタバレありですm(_ _)m]
映画中では「もののけなる」ものが、
なんどか登場しました。
応為が描いた地獄絵に気病となる女性、
地獄にも仏を描くことで収まります。
《文昌星図》葛飾北斎 画
北斎の手が夜な夜な伸びて、
いろんなところを駆け巡る。
このままにしておくと…
離れてしまうのではないか。
花魁は首がのびるものがいるとか…
北斎自身のことは、
自分自身の繰り言だと言いますが、
《富嶽三十六景》を観ると、
縦横無尽に飛び回れたから、
こんなのが描けたのやと思いたいのです。
富嶽三十六景のうち
《御厩川岸より両国橋夕陽見》
(おんまやがしより りょうごくばし ゆうひみ)
ちょっと影絵のようにもみえる富嶽の情景。
群青のシルエットとなって浮かぶ富士、
うっすらと染まっていく夕暮れの空。
輪郭線という結界はないけれど、
昼と夜とのはざまを橋が
分け隔てているのかも知れません。
そして…江戸の男たちが、
現実を忘れるために遊びに来た「吉原」。
現世と隔絶されたた夢の異世界は、
華やかで洒落の分かる場所でした。
女性の地位が低かったと
言われた時代においても、
遊廓は例外で身分差はなかったそうです。
一流の花魁は美貌だけではない、
芸に秀でて、教養も身につけた女性。
現代ならキャリアウーマンというところか。
《空満屋連和漢武勇合三番之内
大井子と樊噲(はんかい)》
応為が吉原へ出入りしていたことは、
映画のなかでも出てきます。
絵にある酒樽には「大ゐ」(おおい)とあり、
北斎が描いた応為とみられています。
酒と彼女の俗名 栄(さかえ)で洒落たのか、
彼女の豪傑がにじみ出ているように見えます。
遊廓は例外で身分差はなかったそうです。
一流の花魁は美貌だけではない、
芸に秀でて、教養も身につけた女性。
現代ならキャリアウーマンというところか。
《空満屋連和漢武勇合三番之内
大井子と樊噲(はんかい)》
応為が吉原へ出入りしていたことは、
映画のなかでも出てきます。
絵にある酒樽には「大ゐ」(おおい)とあり、
北斎が描いた応為とみられています。
酒と彼女の俗名 栄(さかえ)で洒落たのか、
彼女の豪傑がにじみ出ているように見えます。
「困ったときは お互いさまだよ」。
最近は薄れてゆくフレーズでですが、
当時を生きた人からすると当たり前のこと。
江戸時代に訪れたある外国人の
手紙にこうあったそうです。
「日本の町で、もっとも普通に見かける人物に
目の見えない『按摩さん』がいる。
彼らは家族のお荷物にならずに、
日本ではちゃんと家族を養っている。」と。
北斎の四女 お猶と神社にいた少年との、
最近は薄れてゆくフレーズでですが、
当時を生きた人からすると当たり前のこと。
江戸時代に訪れたある外国人の
手紙にこうあったそうです。
「日本の町で、もっとも普通に見かける人物に
目の見えない『按摩さん』がいる。
彼らは家族のお荷物にならずに、
日本ではちゃんと家族を養っている。」と。
北斎の四女 お猶と神社にいた少年との、
微笑ましく仲睦まじいシーンがありました。
目の見えないお猶は雪を踏んだときの音、
目の見えないお猶は雪を踏んだときの音、
雪の感触そして“つめたい”ということ。
その少年と雪を満喫していました。
目が不自由であっても、
当然そこに在るべき者として
受けいられていた。
当然そこに在るべき者として
受けいられていた。
江戸の頃は人々を隔てる、
心の垣根が今よりずっと低かったんだと…
ちょっと俗な話ですが…
応為の夫婦生活のこと。
堤等琳の門人の南沢等明という
人に嫁いだのですが、
天才北斎の画才に加えて…
変人北斎の慎みに欠ける性格を
ちょっと受け継いでしまったようです。
夫の描く絵の拙さを指摘し、
笑ったためが離縁の理由と言われています。
江戸時代の庶民の夫婦間の力関係は、
実のところはそんなにボーダーが
引かれていなかったのかもしれません。
《唐獅子図》
北斎と応為の合作。
中央の唐獅子が北斎、
回りの牡丹は応為の筆と伝わります。
牡丹が先か?
唐獅子が先かは不明です…
ひょっとすると・・・
実のところはそんなにボーダーが
引かれていなかったのかもしれません。
《唐獅子図》
北斎と応為の合作。
中央の唐獅子が北斎、
回りの牡丹は応為の筆と伝わります。
牡丹が先か?
唐獅子が先かは不明です…
ひょっとすると・・・
北斎の唐獅子があとで、
割り込んできたのかも知れませぬ。
割り込んできたのかも知れませぬ。