ヒロシマ爆心地から370m〜広島護国神社

毎年 広島カープが優勝を祈願する
広島護国神社」かつては、
旧市民球場の周辺にあったそうです。

ヒロシマ1945.8.6を生き延びた大鳥居、
広島城址の西側 中国放送本社側に
移設されています。
(旧広島市民球場跡地に姿を現した
 旧広島護国神社の鳥居の台座)
「中国新聞」HPより転載 

ところで…
昨年の原爆の日は、被爆後43年ぶりの
雨が降ったそうですね。
被爆当時は爆心地に間近にあったため、
すべてが一瞬にして消え去ったのです。
その後、
小祠がお祀りされていたのですが、
紆余曲折を経て広島城址の
現在の場所に移られたそうです。
ひろしま護國」にある写真は、
被爆直後に林重男さんが撮られたもの。
そこには被曝してもなお壊れなかった
鳥居・狛犬一対・石灯籠の姿があります。
唐銅製の狛犬…
戦時苛烈になって物資とぼしくなり、
当時その不足を補うべく出された
金属類回収令」。
寺院に対しては仏具まで供出させた
強制力が神社へもとの意見は高まり、
「護国神社」であるからこと、
供出されるべしとの意見が高まったとか。
この狛犬を美術的価値ありとして、
判断したのは当時の宮司さんは、
厳島神社宮司も兼務の 足立達さん
ほかの神社からは猛烈な異論があり、
おひとりで矢面に立たれたのだそうです。

「なんとか供出を免れたため
 今でも境内の入口に厳然と
 立っている姿をみるにつけ、
 殆どが原爆被害によって失われた
 広島市内における、
 私に繋がる思い出の狛犬となり、
 何ともたとえようのない懐かしさ、
 うれしさをしみじみと感じた」と…
広島になぜいまも護国神社??
占領下の神道をとりまく立場は、
非常に困難を極めていましたから、
1947年8月4日に広島神社と改称。
翌8月5日 旧社地に仮殿を造営、
厳島神社に一時保管されていた
御霊代が奉還されて、
1948年8月6日に第1回原爆死没者
ならびに一般戦没者慰霊祭が
執り行われたのがここなのです。
   
依義顕名 謁忠彰立」の文字。
当時のものなのかどうだか???、
東京大学総合研究博物館の記録によると、

被爆直後の台座にあったものと同じでした。
いまの主祭神は英霊とともに、
広島原爆犠牲の
動員学徒や女子挺身隊
みなさんたちなのだそうです。
現在にあらためて社地が
造営されなおされたのは1956年秋。
実は原爆投下直後に行われた調査から、
爆心を決定する際には
護国神社から何メートル離れた地点
という表現が使われていたそうです。
被爆調査の基点
そこを広島護国神社求めていたのです。
「殺身成仁功?四時
 舎生取義節貫雪霜」

もうひとつのヒロシマ爆心地の証。
かつての本殿から拝殿に通じる
参道の横に敷き詰められていた玉砂利。
小石の表面が熱線により泡立ちガラス化、
熔融部分は削ぎ落とされたような形状に。
現在も護国神社に一部が残されていて、
東京大学総合研究博物館にもあるそうです。

このブログは
『中国新聞』広島平和メディアセンター

東京大学総合研究博物館 田賀井篤平 編
 被爆試料に注がれた科学者の目
    を参考にしました。

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