だんだん松山② 「坂の上の雲」と日露戦争


坂の上の雲ミュージアムでは
シリーズ化された企画展示が行われていて、
訪れた日は、
「日露戦争と明治のジャーナリズム4
 ハーグ万国平和会議」が行われていました。

“日露戦争”ってただやみくもに日本が取っ付いた
戦争なんだと思い込んでいたんだけど、
ちょっとこの“戦争”への想いを変えるきっかけに。

企画展示の最後に『坂の上の雲』第二巻
あとがきにある司馬さんの言葉がありました。

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 要するにロシアはみずからに敗けたところが多く、
日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情のために
きわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。

 戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、
国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、
日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、
その部分において民族的に痴呆化した。

日露戦争を境として
日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。
やがて国家と国民が狂いだして
太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、
日露戦争後わずか四十年のちのことである。

敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気するとすれば、
長い民族の歴史からみれば、
戦争の勝敗などというものはまことに不可思議なものである。
   昭和四十四年十月
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国際的に初めての「戦時国際法」であるのが
オランダのハーグで結ばれたハーグ条約。
この条約ができて最初の戦争が、
まさにこの“日露戦争”だったそうです。
日本は、国際法学者を日露戦争に従軍させ、
不平等条約撤廃に向けて国際法を守るという
意識を保持していたのだと言います。

そのことは戦後の捕虜たちの扱いについても、
信仰をはじめとして
個人の尊厳を重んじた扱いしていたのだそうです。
捕虜たちはおおむね厚遇され、
自由外出では道後温泉にも向かったといいます。

松山には実は最大時で4000名をこえる
ロシア兵捕虜がいたとか。。。
当時約3万人くらいだった松山市民には、
その生活に大きな影響がもたらされたと伝わります。

当時松山では、県が県民に対し
「捕虜は罪人ではない。
 祖国のために奮闘して敗れた心情を汲み取って
 侮辱を与えるような行為は厳に慎め」
との訓告を発していたのだそうです。

日露戦争にこんな背景があったとは・・・
それにしても司馬さんの取材力、、
改めてやっぱりスゴイなと思った一コマでした。

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