大倉喜八郎さんちの祇園閣を知る③


大雲院祇園閣の特別公開で頂いた
パンフレットには境内絵図が、
その表紙を飾っています。
実は以前は寺町通りあたりにあり、
高島屋京都店の増床により、
1972年に移転してきたのです。

しだれ桜で有名な円山公園の辺りは、
"真葛ヶ原"と呼ばれていたそうで、
南は双林寺、北は知恩院あたりまで。
平安時代のころは、
真葛や薄(すすき)が一面生い茂る
まさに閑寂な地でした。

江戸時代後期になると祇園は、
詩人の頼山陽、上田秋成、
呉春など多才な人々が集い、
香をたき茶を点て、酒宴を楽しむ
風流な交遊の場になりました。
儒学者の中島棕隠の作といわれる
小唄の『京の四季』にこうあります。
真葛ヶ原にそよそよと
 秋の色ます華頂山
 時雨を厭ふ傘(からかさ)に
 濡れて紅葉の長楽寺


1926年作成の図面には
大倉土木株式会社 建築部図面枠、
そこにある物件名称をみると
京都大倉家別邸内祇園閣」とあり、
大倉家別邸が“主”で祇園閣が“従”
であることが示されています。

いまは大雲院書院とされる
旧大倉家京都別邸の"真葛荘"、
こちらが主役だったのです。
寝室及び納戸のみ鉄筋コンクリート造、
その他を木造とした高い和風住宅建築。
特に内部を八角形状に仕上げたのは、
応接室となっています。
祗園閣特別公開でも、
ここは見せてもらえません(T_T)

どの方角からみたものか不明ですが、
"がらん"としていて寺院の伽藍の要素を
認めることができないのです。

境内南門の門柱によく似ています。

こちらは竹村俊則が著した
新撰京都名所図会』第一巻
1958年に刊行されたもの。
方角や狛犬の配置などは、
現に写したものではないものの、
別邸の庭園にある楼閣、
それが祗園閣であったことを
示しています。

『新撰京都名所図会』には
大雲院は寺町四条あたりに描かれます。
開創は1587年(天正15) 正親町天皇
勅命により織田信長信忠 親子の
菩提を弔うため烏丸二条にて…
秀吉の都市計画整備で寺町通りに移転、
さらに1972年でさらに
商業地化がさらに進み…

1973年に建立の本堂は、
平安・鎌倉の折衷方式のコンクリート造
鐘楼は、かつて北野天満宮にあったもの、
廃仏毀釈後の1872年に移転されてきたもの。
祗園閣は近づくと…
見失う存在でもあるのです。

本堂本尊は丈六の阿弥陀如来坐像
胎内仏は室町桃山期のもので、
創建時の本尊と伝わります。
ちなみに本堂内もカメラNGでした。

伊東と大倉喜八郎との関係は、
そもそも大倉の息子である喜三郎
帝国大学工科大学で伊東忠太の
一年後輩という縁からだとか…

「1912年の大倉向島別邸の建設の際に、
 片山東熊妻木頼黄とともに
 相談を受けたことに始まった」とか。※1
祇園閣は別邸と同時に着工され、
別邸より1ヶ月ほど後に竣工したとか。
「財団法人大倉集古館、祇園閣、
 京都大倉別邸建築記念寫眞帖」
によると、
祇園閣落成の状態を見ることなく
とされています。

「昭和2(1927)年に記された
 野帳の1ページに、
 関連する2つの図が確認される。
 一つは逆さになった
 洋傘が基壇に載る像である。
 もう一つは竣工作品に似ているが、
 全体のプロポーションや
 開口部形状が異なることから、
 初期の構想と推察される。
 2つの図は起工後に野帳に
 描き写されたのだろう。」※2

こちら2014年と竣工のころ1927年、
角度が違いますが現在は外壁で
完全に閉じられている2階部分が開放。
上部2層の楼閣部分に開放性があるため、
石積み風基礎と明確に分化されています

ところで…
"信長の墓所"と言われるのは
いくつかありますが大雲院にも…
本能寺の変後に信忠も二条御所で自刃。

信忠の戒名は
大雲院三品羽林仙巖大禅定門景徳院」。

こちらの弁天堂はいつからあったのか…

いずれにしても真葛荘祇園閣
隙間に大雲院の本堂と境内
そして墓地が作られたのです。



本堂から祇園閣に渡るのは
容易であるのですが、
大雲院の境内で祇園閣全体を
鑑賞できるポイントはないのです。


南門近くからだとこんな感じです。
文化財オンラインの解説、
「大倉喜八郎の依頼により,
 伊東忠太が設計した
 普請道楽の一つ。(中略)
 山鉾をかたどった和風の外観,
 内部のグロテスク型の照明は特異。」

モダン建築の京都」の図録
写真帖からのグロテスク型照明
モノクロ写真がありました。

登録有形文化財に指定しても
"普請道楽"と解説され、
山車としての山鉾は見慣れていても、
巨大な山鉾モンスターがいつもある
京都人は祗園閣を指差す観光客に
「あれについては触れないで
」と
言っていたとか言わないとか。
「周囲と風景と調和」と評されて、
時代が移って登閣にもお預け…
程遠い存在になりつつあるのも、
伊東忠太と大倉喜八郎に
時代が追いついたことなのか?

大倉のイメージが実現していたら、
もっと異形なものとなったかも。

喜八郎の没後の祇園閣のことで括ります。
大倉財閥の事業と共に子息の
喜七郎に継がれることとなります。
若くしてケンブリッジ大学に留学し、
バロン・オークラと呼ばれた
英国紳士であった喜七郎。
祇園閣はキッチュな日本趣味」に
溢れた怪異な建物として映ったとも…
いずれにしても祇園閣を含む真葛荘は、
ホテルニューオータニを開業した
大谷重工業社長・大谷米太郎の手に移り、
その後 高島屋の所有となっていったという。


※伊東忠太 葉書絵
1914年~1950年にかけ、
伊東忠太が描き綴った絵葉書3717枚。
国内外の情勢、社会、風俗にまつわる出来事を
風刺画として描いたものである。
このうち1914年~1919年に描かれた500枚は、
『阿修羅帳 第1巻~第5巻』(國粹出版社)として
1920~1931年に刊行されています。

倉方俊輔
「伊東忠太の建築理念と設計活動に関する研究」

2004年3月 早稲田大学大学院理工学研究科

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