日本人の嗜好をさぐる⑭ 富士登山


《冨嶽三十六景 山下白雨》

 葛飾北斎 
今年は夏の富士山頂は、
人影が見られないのだとか。
信仰として山を登る「登拝」
ではなくて…
レジャーとしての登山は、
戦後からかも知れません。

《凱風快晴》が「赤富士」
称されたのに対し、
《山下白雨》「黒富士」
漆黒に包まれた裾野から
山頂へのシャープなフォルムは、
尖りすぎの印象が否めません。
夕立を意味する「白雨」、
裾野に轟く稲光り…
さっきまで晴れていたのに、
迫る黒く染まった雨雲、
これから来るであろう雨は、
俄雨でやり過ごしたい。

《冨士山北口全図 鎮火大祭》
西欧の山には”悪魔の棲家”
そんな印象とは逆に、
日本人は山や自然と共生、
"畏敬"
という想いがありました。
神迎えに登る時が山開き、
富士山となると…
浅間神社の祭がそれです。

《冨嶽三十六景 諸人登山》
 葛飾北斎


北斎の冨嶽三十六景にも
富士山頂を目指す富士講の
人々が描かれています。
富嶽シリーズ46枚中、
唯一この画には富士の山容が
描かれていないのです。
特定の場所が明示されず、
「凱風快晴」「山下白雨」
と並びシリーズの締めを
担っています。

江戸期に生きていた人々は、
非常に特別な存在として
富士山と付き合っていました。
というのも富士山の噴火は、
日記などの記録を辿ると、
平安時代以降に10回あり、
大規模な噴火は1707年の
宝永大噴火なのです。


『富嶽百景』《宝永山出現》
 葛飾北斎


北斎はこの宝永大噴火を
描いていたのです。
『富嶽百景』という冊子体に、
「宝永山出現」とあるのがコレ。
降り注ぐ岩、崩れ落ちた家屋、
下敷きになった馬、
人までもが宙を舞い、
なすすべもなく逃げ人…
規模の大小はあるけれども、
ほぼコンスタントに
300年サイクルという
周期で噴火が起きています。

《大山石尊大権現(仮題)》
 歌川芳虎


そんな畏敬の対象の富士、
なぜ目指したのでしょうか。
三枚綴りの大山講錦絵には、
江戸の町火消し装束に提灯、
男気の示せる山登りという
一面を持っていたのでしょう。
ちなみに江戸期には文字や
小さな花などの入れ墨で、
絵のような全身の入れ墨は、
創作であるようです。

《富士山諸人参詣之図》
 二代 歌川国輝 


まだ夜も明けぬ暗い内に
参集した富士講中。
富士山頂にお参りするという
信仰が目的ではありますが、
その帰途に相模の江ノ島
金沢八景などを遊覧する。
最初は純粋の信仰心からの
参詣旅行だったものが、
今で言うオプションが
加わったのです。


《諸国名所 駿州 大宮口登山》
 魚屋北渓


白装束に手甲脚絆、
そして腰には鈴を
付けたようです。
「南無阿弥陀仏」とも
「六根清浄」とも唱えて
登る姿は信仰心の高さを
感じさせるものですが…
一方では講という集団を
管理する役目でもありました。


《富士登山諸講中の図》
 歌川国芳


諸講中が茶屋で一休みして、
これから出発するところ。
品川沖の見える高輪で、
高輪大木戸の石垣が見えます。

江戸市中にはあちこちに
「富士塚」がつくられ、
富士山の山開きの6月1日は、
前夜から富士詣と同様に
賑わったそうです。
「富士塚」とは…
いわゆるミニチュア富士
大阪の天保山
その一つだと言われています。

茶屋の前で握り飯
頬張る姿が見えます。
握り飯は女詞(おんなことば)で、
"むすび"ともいい、
掌に塩水をつけて飯を
握ってつくりますが、
各地で形が異なりますね。
おむすびの形は富士に似てる 😁

《冨士三十六景 甲斐御坂越》
 歌川広重


富士はおそらく一番多く
描かれてきた山でしょうね。
構図はリアルかデザインか、
実証研究があります。
甲府から鎌倉往還を通り、
御坂峠を越えて河口湖へ
至るルートの途中だと…
果たして本当?

《冨嶽三十六景 甲州三坂水面》
 葛飾北斎


富士登頂が叶わない夏
北斎の裏富士シリーズは、
富士そのものだけでない
冨嶽への畏敬の念
籠められているのでしょう。
遠くから愛でるのも一興!

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