日本人の嗜好をさぐる⑲ 天神祭の変革


《浪速天満祭》五雲亭貞秀

7月25日は天神祭、
新型コロナウイルスで実現した
神事「本宮祭」YouTube配信は、
約4千人の視聴があったそうです。
平安時代に始まった天神祭は、
千年を超える歴史を誇るのですが、
京都の祇園祭とあえて比して、
ウチの奥義は観てもらおうと…
「今年の祭りは
 コロナによって縮小されたが、
 ライブ配信によって多くの人と
 神事を共有できたことは
 とてもよかった。
 国内外の人に日本の神道の文化に
 興味を持ってもらえる
 機会になったのでは。
 これからも祭りの映像を
 残していくなどの
 試みを続けていきたい」
寺井種治宮司のコトバ。

《浪速天満祭》五雲亭貞秀

実は…天神祭の祭日が
7月25日となったのは、
意外に新しいのです。
1878年のことでして、
明治5年の新暦採用
キッカケとなり、
試行錯誤の末に
7月25日となりました。
それ以前は旧暦の6月25日、
菅原道真のお誕生日でした。

「天満宮七夕祭」の図

戦国期より古い時代には、
天神祭は7月7日だったとか。
おそらく鎮守社であった
大将軍社の影響なのでしょう。
太白星 (金星) の精である
大将軍の星祭である
7月7日が祭日なのです。

《浪速天満祭》五雲亭貞秀

《浪速天満祭》は、
歌川派の五雲亭貞秀が描いたもの。
1859年(安政6)に描いた木版画で、
精密な俯瞰図は貞秀の得意とするもの。
三枚続きの大判錦絵が、
大川の船渡御を俯瞰されています。

中央の打ち上げ花火の左右には、
玉造社真田山イナリの注記。
大阪城の南方に位置する
玉造稲荷神社三光神社のこと。

鳳神輿玉神輿がみえます。
御鳳輦が現在の天神祭では、
陸渡御、船渡御の中心ですが、
江戸期では天神様の乗る鳳神輿と、
法性房尊意の乗る玉神輿の
二基が中心だったそうです。
天台宗の高僧である尊意は、
「荒ぶる神」になったときに
天神様を法力で鎮める役目を
期待された神様のこと。
船上でも相並んで
渡御していたそうですが、
神仏分離令の影響なのです。

《天神祭礼図》

渡御列の中心は御鳳輦です。
御鳳輦とは、屋形の上に
鳳凰を飾った乗り物で、
本来は天皇の公式の乗り物。
千年の歴史を誇る
天神祭と感じさせますが、
天神祭に御鳳輦が登場したのは
1876年のことなのです。
明治天皇が御鳳輦で
地方行幸されていたのに倣い、

天神祭でも菅公の御料車が
御鳳輦に変えられました。

《浪花百景 天満天神地車宮入》
 中井芳瀧

法性房尊意に代わって
「荒ぶる神」の鎮めるお役目は、
手力男命野見宿禰
委ねられたのです。
手力男命は、天の岩戸で天照大神を
外にお連れした神様。
野見宿禰は相撲の祖とされ、
ともに怪力で「荒ぶる神」を
鎮めることを期待されたのです。

《浪花百景 天満市場》
 歌川国員


1653年に官許市として
営業が開始された、
幕府の保護を受けた
大坂で唯一の青物市場
対岸は八軒家浜という
大川の一等地という立地、
摂河泉の野菜をはじめ、
紀州・山城の果物など、
松明や提灯の明かりのなか
年中無休の営業で
活況を呈しました。

《浪花百景 三大橋》
 歌川国員


難波橋、天神橋、天満橋。
「浪華三大橋」と称され、
いずれも公儀橋として
幕府が維持管理を担いました。
難波橋ライオン橋と親しまれ、
天神橋は流麗なアーチ橋、
天満橋は “重ね橋”として、
風景は変われど…
今年の夏は雨に濡れています。

《浪花百景
 戎嶋天満宮御旅所》
 歌川国員


太宰府への左遷の宣命が
下ったのは2月25日、
薨去されたのが1月25日。
毎月25日は天神様の
ご縁日なのです。

7月7日から7月25日へ、
天神祭の祭日が変わったことは、
落ちくべきところにということ。

そして…
伝統と変革の歴史を刻んだ、
大阪天満宮のYouTube配信は、
長い歴史のなかでは
必然だったやも知れませんね。

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