奇想の画家 曾我蕭白〜ボストン美術館展
「ボストンを見ずして日本美術を語るな」
十万点のコレクションはその量ではなく、
日本美術は「雅なるものだけに留まらない」。
本質を見抜くキーワードが、
そのコレクションに含まれています。
ちょっとムズカシイ言い方をし過ぎました...そのコレクションに含まれています。
国宝・重文級が勢揃いする一方で、
蕭白コレクションは異彩プンプン。
風仙図屏風 曾我蕭白筆 |
「アメリカの大都市の往来に書き散らされた
落書き(グラフティ)に通ずるような、
かたちの肉厚な掴み方を特色とする。」
(「ボストン美術館の曾我蕭白コレクションについて」
辻惟雄, 2012, 『ボストン美術館展 日本美術の至宝』)
「なんでこんな逸品を手放したのか?」
ボストン美術館の日本美術コレクションを
目にするとほとんどの人が口にします。
ただ現実には、あの伊藤若冲も相当長い期間は、
まったく注目されていませんでしたし、
多くは二束三文で海外に売られたといわれます。
虎渓三笑図屏風 曾我蕭白筆 |
当然 どギツイフォルムをみせる曾我蕭白は、
生理的に受けつけない人も多かったこと、
一種の忌み嫌う存在であったのではないかと。
朝比奈首曳図屏風 曾我蕭白筆 |
「実は当初百点を超えていたボストンの蕭白画は、
1930年台の不況時代に、
うち七十点が売却された。」というから、
そのグロテスクなまでに荒々しい表現に、
まさに躊躇してしまったのかも知れません。
「曾我蕭白 無頼という愉悦」のポスターには、
「円山応挙がなんぼのもんぢゃ!」と...
ただ京都で活躍した画家たちに
対抗心があったのかどうか?
若冲は、錦小路の青物問屋の長男であったようで、
基本的に生涯、生活の心配をしなかったらしく。
好きなだけ絵を描きつづけた人、
絵が生活の糧ではなかったようです。
曾我蕭白は商家で江戸に生まれながら、
17歳にしての天涯孤独の身となり、
奇抜なモノを発信することに貪欲だった
一面があったようです。
でもどこか優し気な眼差しも垣間見えます...
だからこそ「閉塞感」のある時代に
ウケる存在になりえるのかも知れませんね。