広島の洋館をあるく 福山・福寿会館
シーズン最後の土日のズムスタでのゲーム、
なにか起こるかもと・・・・
楽しみにゲットしていた(・ω・)v
でも遠征は本当に楽しい!!
久々にマイカーを走らせて、
途中「福山」に立ち寄った。
福山城公園内にある「福寿会館」は、
昭和の初めごろ「削節王」といわれた
安部和助さんの別荘として建てられた洋館。
「削り節」というのは、海産物商だった
安部和助(あんべわすけ)さんの
考案なのだそうです。
当時、瀬戸内海周辺は鰯がよくとれたそうで、
乾かして「いりこ」として使っていて、
余りは飼料として使われていたようです。
飼料になるものを削って製品化したのが
「花がつお」なんだそうです。
藩政時代は幕府から預かった
兵糧米を収蔵する城米蔵があったところ。
敷地面積はなんと約7400平方メートル、
平屋で和式の本館に木造2階建ての洋館。
「池泉回遊式庭園」もある大豪邸だ。
先の大戦の福山大空襲では「福山城」は、
天守が焼失したが罹災を免れ、
その後 福山通運の創業である
渋谷昇 さんの持ち物となり、
その後1953年に市への寄贈となった。
披露宴会場として使われていたことが、
「福寿会館」と寿ぎめでたい名の由来。
およそ1万組のカップルが
ここから誕生したのだそうです。
1973年からは「市迎賓館」、
そして「市史編纂室」に。
1997年には国の登録有形文化財に登録された。
柱や窓にはイタリア・ルネサンス風の装飾。
屋根の妻にある中央部の浮き彫りと
窓上部のアーチ形装飾。
こちらが 本館 玄関で・・・
そして大広間につづく。
本館にも茶室があるが、
こちらは「望城亭」と呼ばれる
1930年代に造られた 南茶室。
数寄屋造りの巨匠で京都市中京区にいた
笛吹嘉一郎 氏の手によるもの。
福山城天守閣 から見下ろして、
その広さを実感!!
「福寿会館」旧 安部和助別荘
建築年:1935~37年頃(昭和初期)
木造2階建、瓦葺
なにか起こるかもと・・・・
楽しみにゲットしていた(・ω・)v
でも遠征は本当に楽しい!!
久々にマイカーを走らせて、
途中「福山」に立ち寄った。
福山城公園内にある「福寿会館」は、
昭和の初めごろ「削節王」といわれた
安部和助さんの別荘として建てられた洋館。
「削り節」というのは、海産物商だった
安部和助(あんべわすけ)さんの
考案なのだそうです。
当時、瀬戸内海周辺は鰯がよくとれたそうで、
乾かして「いりこ」として使っていて、
余りは飼料として使われていたようです。
飼料になるものを削って製品化したのが
「花がつお」なんだそうです。
藩政時代は幕府から預かった
兵糧米を収蔵する城米蔵があったところ。
敷地面積はなんと約7400平方メートル、
平屋で和式の本館に木造2階建ての洋館。
「池泉回遊式庭園」もある大豪邸だ。
先の大戦の福山大空襲では「福山城」は、
天守が焼失したが罹災を免れ、
その後 福山通運の創業である
渋谷昇 さんの持ち物となり、
その後1953年に市への寄贈となった。
披露宴会場として使われていたことが、
「福寿会館」と寿ぎめでたい名の由来。
およそ1万組のカップルが
ここから誕生したのだそうです。
1973年からは「市迎賓館」、
そして「市史編纂室」に。
1997年には国の登録有形文化財に登録された。
柱や窓にはイタリア・ルネサンス風の装飾。
屋根の妻にある中央部の浮き彫りと
窓上部のアーチ形装飾。
こちらが 本館 玄関で・・・
そして大広間につづく。
本館にも茶室があるが、
こちらは「望城亭」と呼ばれる
1930年代に造られた 南茶室。
数寄屋造りの巨匠で京都市中京区にいた
笛吹嘉一郎 氏の手によるもの。
福山城天守閣 から見下ろして、
その広さを実感!!
「福寿会館」旧 安部和助別荘
建築年:1935~37年頃(昭和初期)
木造2階建、瓦葺