「古池や 蛙飛込む 水のおと」

「古池や 蛙飛込む 水のおと」
 
俳諧のヒットメーカーである
誰もが知る 松尾 芭蕉 の有名な句です。
この句は
1686年の芭蕉43歳のときに出した句集
『蛙合わせ』の冒頭を飾る句です。

芭蕉は京都、奈良、伊勢の
当時の交通の要衝であった
 伊賀上野の地に生をうけています。

文化の交流の場所であった当時の伊賀上野は、
笑いと機知に富んだ句を仲間内で楽しむ
「俳諧」という人的交流が盛んでした。

芭蕉の生家は、
格式は武士に準じながら
生計は農業で立てる身分でしたが、
13歳の時に「蝉吟(せんぎん)」という
俳号を持つ 地元の上級藩士
藤堂 良忠 (とうどう よしただ)に士官することを
 きっかけに俳諧の道に進んだようです。


ところで「俳諧」のことばの諧とは、
諧謔(かいぎゃく)という言葉から来ています。
諧謔とはユーモアとか冗談という意味。
当時の「俳諧」はいまだ
 芸術の域に達してはいませんでした。

身分を超えてつきあうリベラルな場
   「俳諧」でありましたが、
身分や肩書きを外して
お互いの立場を言いあう場であったことが、
芸術的な評価を受けるに至りませんでした。


長くなりました
「古池や 蛙飛込む 水のおと」
  の句の話に入ります。

芭蕉が江戸に出て「俳諧師」として生きてきて、
富裕な町人たちに俳諧を教えるなかで、
ただのコトバ遊びではないかと疑問を感じたようです。

芭蕉の41歳にいたり
西国への旅に赴くことになります。
紀行文の「野ざらし紀行」
野ざらし とは
髑髏(しゃれこうべ)のこと。
白骨になることも覚悟しての
悲壮な決意の旅でもありました。

言葉のなかに情景を描けないかと、
芭蕉はこの旅で感じたようです。


蛙といえば鳴くことがいわゆる決まりごと、
そして蛙には「山吹」がセットでもありました。

古池や・・・の句は
其角 さんは「古池」の句の上五を
 「山吹や」とされると思っていたようです。

古今集の
「蛙なく 井手の山吹 ちりにけり
 花のさかりに あはましものを」

 から来るお決まりから連想したとされるのが、
 後の研究者たちの定説になっています。



カエルを鳴かさせず
 伝統を無視し飛ばせた芭蕉。


「古池や 蛙飛込む 水のおと」の句。

この句にはさまざまな情景に想いを
馳せさせるチカラを持っています!!!

松尾芭蕉は、
この句を愛でる楽しみを
未来の鑑賞者たちに残していかれました

これこそが俳句の奥深さでもあります。




虎次郎 はついつい喋りまくってしまいます。
コトバをたくさん使わないと
伝えれないんじゃないかと思っている。


「いひおおせてなにかある」
        という言葉があります。
言い尽くして何の意味があるよ。と
芭蕉さんのつぶやきが聞こえて来るようです。

芭蕉が伝えるコトバの芸術。
こゝろに沁み入り。。。
学ぶべきところがあります!!



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