雪の大阪
今年は本当に雪が降りません。
週末 京都に行きましたが、
この冬は市内でも積もったことがないそうです。
御所 の北側を通るのが「今出川通」ですが、
だいたい「今出川」より北に行くと、ぐっと冷え込みます。
京都 で少しでも冬を過ごした人は、感覚的に知っています。
伏見稲荷 で降っていなくても、
同志社 の キャンパス は雪景色ってことがしばしば。
「 雪の大阪 」 (1928)
大阪歴史博物館 で昨年行われた特別展
「煉瓦のまち タイルのまち ~ 近代建築と都市の風景」に、
池田 遙邨(いけだ・ようそん)(1895-1988)が描いた
「 雪の大阪 」 が出品されていました。
昭和3年(1928)2月11日に降った 大阪の大雪を描いたもので、
「難波橋」、「天神橋」、「天満橋」、
中央には「中之島公園」が見えます。
右画面の 外輪船 が浮かぶ後ろのビルが、
大正15年(1926)に建てられた
「大林組 本社」です。
このビルは、
今は「辻学園 調理技術専門学校」
として今にその姿をとどめています。
前日から降りしきる大雪は、
22年ぶりの積雪やったそうです。
《橋に
澪標 みおつくし の
デザイン》
真ん中の大きな屋根が
京阪 「 天満橋駅 」
奥に 「 大阪偕行社 」
現在の 追手門学院小学校
池田 遙邨 さんは、
江 戸時代後期の
浮世絵師・歌川 広重 に影響を受けたと言われています。
出生当時の本籍地が 倉敷市 だったことなどから、
遙邨さんは、
自作498点を 倉敷市 に寄贈。
1983年に開館した
「倉敷市立美術館」にはコレクションが
充実しているとのこと。。。
「倉敷市立美術館」には 遙邨 さんの
東海道の写生旅行での力作『 東海道 五十三次図絵 』があります。
広重 の影響を色濃く感ぜさせます。
虎次郎 は 京都 で1月に生まれました。
その日、当時走っていた「市電」が大雪で動けなかったそうです。
今から40年前にも、京都も雪化粧していたんだとさ。
★ 池田 遙邨 の『 東海道 五十三次図絵 』について、
こんな言葉を遙邨 さんは残しています。
『私は昭和3年の春、三條(三条)大橋を発って
旧東海道筋を日本橋まで全徒歩で画行し、
続いて同5年また同じ旅に上った。
生来旅行が好きである上に写生旅行を
画室の延長であると心得ている私であるから、
こうした長途の旅をしたことも再三ならずあるが、
特に二度 も道を同じ東海道にとったのは、
広重の代表作ともいうべき東海道五十三次図絵の
影響であつた。即ち、つとに広重を敬慕し
その版画芸術に魅了されていた私も 彼にならって
同じ画業を試みてみたかったからである。
それで、私はその旅から戻ると、再度の旅行で
かなり豊富になった画嚢のスケッチを整理して、
東海道五 十三次図絵の制作に筆硯を新にした。
そして同6年37歳でその完成を見たが、その
成果は彼広重が38歳で世に送った
保栄堂版に較ぶべきもない
稚拙なものであったことはいうまでもない。』
池田 遙邨
週末 京都に行きましたが、
この冬は市内でも積もったことがないそうです。
御所 の北側を通るのが「今出川通」ですが、
だいたい「今出川」より北に行くと、ぐっと冷え込みます。
京都 で少しでも冬を過ごした人は、感覚的に知っています。
伏見稲荷 で降っていなくても、
同志社 の キャンパス は雪景色ってことがしばしば。
「 雪の大阪 」 (1928)
大阪歴史博物館 で昨年行われた特別展
「煉瓦のまち タイルのまち ~ 近代建築と都市の風景」に、
池田 遙邨(いけだ・ようそん)(1895-1988)が描いた
「 雪の大阪 」 が出品されていました。
昭和3年(1928)2月11日に降った 大阪の大雪を描いたもので、
「難波橋」、「天神橋」、「天満橋」、
中央には「中之島公園」が見えます。
右画面の 外輪船 が浮かぶ後ろのビルが、
大正15年(1926)に建てられた
「大林組 本社」です。
このビルは、
今は「辻学園 調理技術専門学校」
として今にその姿をとどめています。
前日から降りしきる大雪は、
22年ぶりの積雪やったそうです。
《橋に
澪標 みおつくし の
デザイン》
真ん中の大きな屋根が
京阪 「 天満橋駅 」
奥に 「 大阪偕行社 」
現在の 追手門学院小学校
池田 遙邨 さんは、
江 戸時代後期の
浮世絵師・歌川 広重 に影響を受けたと言われています。
出生当時の本籍地が 倉敷市 だったことなどから、
遙邨さんは、
自作498点を 倉敷市 に寄贈。
1983年に開館した
「倉敷市立美術館」にはコレクションが
充実しているとのこと。。。
「倉敷市立美術館」には 遙邨 さんの
東海道の写生旅行での力作『 東海道 五十三次図絵 』があります。
広重 の影響を色濃く感ぜさせます。
虎次郎 は 京都 で1月に生まれました。
その日、当時走っていた「市電」が大雪で動けなかったそうです。
今から40年前にも、京都も雪化粧していたんだとさ。
★ 池田 遙邨 の『 東海道 五十三次図絵 』について、
こんな言葉を遙邨 さんは残しています。
『私は昭和3年の春、三條(三条)大橋を発って
旧東海道筋を日本橋まで全徒歩で画行し、
続いて同5年また同じ旅に上った。
生来旅行が好きである上に写生旅行を
画室の延長であると心得ている私であるから、
こうした長途の旅をしたことも再三ならずあるが、
特に二度 も道を同じ東海道にとったのは、
広重の代表作ともいうべき東海道五十三次図絵の
影響であつた。即ち、つとに広重を敬慕し
その版画芸術に魅了されていた私も 彼にならって
同じ画業を試みてみたかったからである。
それで、私はその旅から戻ると、再度の旅行で
かなり豊富になった画嚢のスケッチを整理して、
東海道五 十三次図絵の制作に筆硯を新にした。
そして同6年37歳でその完成を見たが、その
成果は彼広重が38歳で世に送った
保栄堂版に較ぶべきもない
稚拙なものであったことはいうまでもない。』
池田 遙邨