四寺廻廊と陸奥の祈り 医王山 毛越寺


寺伝によると850年(嘉祥3年)
慈覚大師円仁が東北巡遊のおり、
この地にさしかかると、
一面霧に覆われ
行く手を阻まれまたとか、
地面に点々と白鹿の毛…
毛をたどると白鹿が
うずくまっていたのです。
近づくと白鹿は姿をかき消し、
その後 白髪の老人…この地に
堂宇を建立し霊場にせよと。

開山堂には慈覚大師円仁像、
右手に両界大日如来像、
そして江戸期に描かられた
藤原三代の肖像画が祀られる。

上から藤原清衡
下右 藤原基衡、下左 藤原秀衡

開山堂はその様式に
寒冷地を意識した意匠も見え、
3度の火災で焼失するも
開山堂ということもあり、
当時の姿を引き継いだのやも。
白鹿伝説で円仁が創基し、
『吾妻鏡』に登場する「嘉勝寺」、
本尊は丈六の薬師如来とされ、
北側にその基壇が残されています。

毛越寺大泉が池
東南岸にある荒磯風の出島
水辺から水中へと石組が突き出、
飛び島には景石が池全体を
引き締める存在になっています。

玉石を敷いた中島が築かれ…

南大門前から中島まで反橋が、
反対の金堂側からは斜橋が
架けられていたそうです。

橋の四隅のに橋挟石や
南の反橋の橋杭は残存…
橋の遺構として わが国最古

金堂を中心に鐘楼・経楼を
対象に配置されていた寝殿造とか。

陸奥辺境の地を仏国土とする
という初代清衡の理想は、
中尊寺となり結実しました。
二代基衡は受け継ぎ発展…
中尊寺をはるかに上回る
規模の毛越寺は、
その所産であったとされます。

平安中期の作庭方法論書、
『前栽秘抄』『園池秘抄』
ともよばれる「作庭記」。

池はただ水を溜めればいい
というわけではなく…
石をたつるにハやうやうあるべし
 大海のやう 大河のやう
 山河のやう 沼池のやう
 葦手のやう等なり」

「池の石は
 そこよりつよくもたえたる
 つめいしををきて
 たてあげつれば 年をふれども
 くづれたふるゝことなし
 水のひたるときもなを
 おもしろくミゆるなり」

「池ならびに河のみぎハの白浜ハ
 すきさきのごとくとがり
 くわがたのごとく
 ゑりいるべきなり」

洲浜の形状がどうあるべきか…
鋤鉾(すきさき)とは
鋤の先につける金具のこと。
そして…
鍬形は兜の前立に用いられます。
鍬形のような曲線の州浜を
見ることができます。

池の北東部分の遣水(やりみず)。
「遣水谷川の様ハ
 山ふたつがハざまより
 きびしくながれいでたる
 すがたなるべし」

5月第4日曜日「曲水の宴」が
催されているとか…

明治初期までは毛越寺も清衡が
造ったとする説が有力でした。

『平泉雑記』(1772年ごろ)に、
清衡造営説でないとの指摘があり、
基衡造営説に移ったのです。

清衡あるいは基衡の代から、
平泉藤原氏は私営田領主
あるいは京藤原氏荘園の総預
といった地位にあったとか。
初代清衡…
京藤原氏に対しては
きわめて協調的。
一方 二代基衡は剛直
その態度を崩すことはなかったとも。

「基衡は果福、父にすぎ」
吾妻鏡』にある言葉ですが、
奥州藤原氏が辺境在地勢力として、
揺るぎないまでに
拡大充実していたことを
伝えているともみれます。

仙台藩主 伊達吉村の武運長久を
願って1732年再建された常行堂。
奥殿には秘仏・摩多羅神
古くから作物の神様として
信仰されているそうです。

奥殿の扉は固く閉ざされ、
33年に一度の御開帳とか。
2000年に御開帳でしたので、
次は…2033年とか。

「夏草や 兵共が 夢の跡」
元禄2年(1689)旧暦5月13日、
高館に立ち詠んだ芭蕉
こちらが芭蕉の真筆の句碑。

中尊寺の僧で俳人でもある素鳥
1806年(文化3)に建てた副碑

もうひとつの
「夏草や…」こちらは英文
The summer grass
'Tis all that's left
Of ancient warriors' dreams. 
旧五千円札肖像の
新渡戸稲造博士は岩手県出身。
俳句を英訳…字数のかかるものです。

夏草でなく"花菖蒲"が咲き誇る。
『おくのほそ道』には、
秀衡、康衡、兼房はあれど
義経の名前が出てこないのです。
義経、頼朝、そして平泉。
「泰衡らに、義経を捕らえて出せとの
 宣旨をすでにくだしておいた。
 しかるに皇命を恐れず、
 弁解がましい子細を述べるとは、
 許されるはずのものではない。
 そればかりでなく、
 義経が奥州中に出歩いているという
 確かな風聞があるのに
…」

泰衡はみずから数百騎を率い、
義経の宿所である高館へ
文治5年閨4月30日のこと。
泰衡は義経の首と引き換え
平泉の地位の安泰を図りますが、
頼朝は奥州征伐へ突き進みます。

平泉征伐は義経追討ではなく、
それ以前から準備されていて、
源氏相伝の宿念であったとも。

頼朝、義経らの祖父である為義が
陸奥守就任を所望した折、
平泉では豪気果断な基衡の治世。
源氏にとって奥州は、
「あの意趣ののこる国」
義経の死に関わらず、
平泉討伐は避けては通れない
命題であったともされています。


高館義経堂源義経公像
さしたる朝敵でない義経と泰衡、
「ただ私の宿意をもって誅亡」
源氏の嫡流としての宿意より、
義経への執拗なこだわり、
判官贔屓の判官は義経のこと、
日本人の歴史観は明治以降に
創られてのものと想像します。

平泉のその後『吾妻鏡』には、
陸奥平泉の寺塔破壊の事、
 はやく修得するようにと…。

 というのは、
 甲冑をつけた法師一人が
 尼御台所の夢枕にあらわれ、
 平泉の寺塔荒廃は遺恨にたえない、
 と恨みことを言った。」
頼朝の「私の宿意」の平泉征伐、
北条政子のみならず鎌倉将士には、
その事実させ沈潜させられていたやも。

意図的に義経を出さずに、
悲劇のヒーローを読み手に
捉えさせようとしたとも
評される
松尾芭蕉の『おくのほそ道』、
義経公の人気は、
元禄当時も根強いもの…
俳諧の宗匠である芭蕉、
町衆と同じように
判官贔屓の持ち主では、
格好が付かないとも…


義経のことを詠んでいない芭蕉、
「荒海や 佐渡によこたふ 天河」
義経と平泉と関わり…
佐渡島に渡ろうとしたが果たせず、
大物浦での遭難は、
平家の亡霊によるとも…
"佐渡によこたふ 天河"は、
平家なのか頼朝なのか。
芭蕉のおくのほそ道 は、
義経追慕の道程ともいわれる所以。

ちなみに特別史跡特別名勝
その文化価値を国から二重に
指定されているのに加え、
世界遺産が加わった。
平安栄華の跡 みちのくにあり。

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