野球帽の研究 第8講義〜ヘルメット


1950 ブルックリン・ドジャース

ジャッキー・ロビンソン
ニグロ・リーグに在籍してたが、
1947年4月15日に
黒人プレーヤーとしてMLBへの
デビューを果たした。

映画『42 〜世界を変えた男〜』
ハリソン・フォードが演じた
ゼネラル・マネージャー、
ブランチ・リッキーという人は、
このクレバーで精神力の強い、
ジャッキー・ロビンソンを
目につけたのだった。

冒頭に登場した帽子、
実はインナーヘルメット
内装されていたもの。
今でこそ当たり前に打者は
ヘルメットをかぶるが、
これが当たり前になるのは
1950年代に入ってから、
黒人選手を快く思わない
投手からのビーンボール。
帽子の中のプロテクターは、
まさに必須だったのである。

1956年に新ルール、
ナショナル・リーグでは、
リッキースタイルのヘルメット
もしくはキャップインサートの
プロテクター着用の義務づけ。
アメリカン・リーグも
1958年にならったのです。

ブランチ・リッキーは
アメリカ野球帽子会社に出資、
防御用ヘルメットの開発を
推し進めた人。
1953年には先駆けて、
ピックバーク・パイレーツ
GMとしてヘルメット着用を
チームの選手達に、
義務付けた人であった。

日本のプロ野球でヘルメットで
まず思い出すのはアメフト型の
赤鬼マニエルのヘル
今でこそ顎ガードを付ける
選手が多いが…
時は1979年6月9日、
日生球場でのロッテ戦5回裏。
八木沢荘六の投球をアゴに受け、
右下アゴ粉砕骨折( TДT)
アゴから血をしたたらせながら
マウンドに向かうが、
チームメートに止められた。

今年よくみられる顎ガード
広島から巨人にFA移籍した
丸佳浩が広めたと言われる。
「プレーに影響のない範囲で
 視野が狭まることで、
 余計な情報を遮断している
 感じがして、
 自分の世界に入れる。…」と。
マニエルは真反対、
「ガード部分が上下に動き、
本当は非常に打ちづらかった」


甲子園歴史館にあるヘルメット、
いまはスタンダードな耳付き。
頭へのデッドボールで、
着用が義務付けられています。

1970年8月26日、
広島の外木場義郎さんから
受けた一球がキッカケに。
第一打席でも外木場さんから
ヒジに死球を受けていました。
1970年シーズン、
外木場さんは田淵さんに
12打数6安打4本塁打と
カモにされていたから、
内角への厳しい一球。

甲子園歴史館では現在
野球殿堂入りを記念し、
レプリカレリーフとともに、
このヘルメットも展示されています。

4番大山について、
こう語る田淵さん
「インコースにきたら右に
 押し出すような打撃はやめて、
 三振をしてもいいから
 レフトスタンドにファウル
 を打つような思いきりの
 良さを求めたい。」
と…


「野球帽の研究」は綱島理友さんの
 『野球帽大図鑑』を参考にしています。