野球帽の研究 第2講義〜日本化の波


1944 阪神

軍靴の足跡が響き渡る1940年、
満州各地を転戦しました。
時局にて野球の「日本化」
急速に進んだのです。
観客席の服装の国防色にならい、
連盟はユニフォームは国防色…
ただユニフォームは物資不足で、
調達できず阪神は縦縞を、
試合で用いずに…
帽子だけ戦闘帽をかぶります。
いまなお阪神電車の車体にみられる
社章が付けられています。

1943-1944 阪急

胸からHマークを外した阪急は、
社章を袖章につけるなどして、
なんとかモダンな雰囲気を
保っていたのですが…
軍帽に阪神急行電鉄の社章、
大阪市と神戸市の市章の組み合わせ。
1943年10月に京阪電気鉄道と
合併し京阪神急行電鉄に、
新社章の戦闘帽の存在不明とか。

1943 西鉄

西日本鉄道の社章がみえるが、
西武ライオンズの系譜にない。
競馬の有馬記念で知られる
有馬頼寧 伯爵がオーナー、
西武鉄道が資金援助した、
東京セネタース
ルーツ。
筑前久留米藩主の出身
という有馬伯爵が縁で、
福岡の西日本鉄道が経営を
肩代わりしたことが所以、
ただ…1943年に解散となる。
時代が移って2013年、
ライオンズ・クラシック
西武ライオンズ
ユニが復刻されました。

1938-1940 イーグルス

戦前に姿を消した球団、
後楽園イーグルス」。
楽天がゴールデンイーグルス
名乗らざるを得なかったのは、
この球団が存在していた証。
一時期は大日本麦酒の社長、
高橋竜太郎がスポンサーだった。
1940年の秋に黒鷲軍となった…
「日本語にしたら野球でなくなる」
と主張したのは、
黒鷲軍の河野安通志

1944 産業

マークは理研産業団のもの、
敵性スポーツとされた野球が、
各地議会の野球排撃決議が
採決されていたのに、
なぜ興行を続けられたのか…
率先して軍服ユニフォームを
導入したのはドラゴンズの前身、
名古屋軍でした。
ただ…中部日本新聞は1944年に
経営から手を引いてしまい、
産業軍に改称されました。
戦闘帽のあごヒモをかける規定、
実は真面目に守っていたのは、
この産業軍ぐらいだったかと。

1940 名古屋軍

名古屋軍の代表は、
ライバルだった名古屋金鯱軍
理事だった赤嶺昌志
野球ルールの日本語化は、
日本野球連盟の理事会でも
意見は真っ二つに分かれていた、
積極的に賛成したのが赤嶺氏。
ただ…
軍国主義者だったワケでなく、
生き残るための現実主義者
"名"の文字のデザインは、
同盟国ナチスドイツの
ハーケンクロイツ
を模している。

1943 朝日

船場の繊維問屋の田村駒
田村駒治郎が戦前の
ライオン軍を改称したのが、
「朝日軍」という名。
自らの経営していた
太陽レーヨンから名付けたと…
ライオン歯磨をネーミングライツ
とした田村駒治郎は、
「ライオンは日本語である」と。
朝日軍はマークを外した従来ユニ、
帽子だけ軍帽を着用した。
繊維問屋の田村は国防色の
ユニを作れたはずだか、
田村の反骨心がなせたのか。

1940-1943 南海

南海も1943途中から戦闘帽だが、
1940年の秋季リーグから
四角いハンコのような
輪郭の「南海」の文字。

1943-1944 東京巨人


1940-1943 東京巨人

1940年の秋の『野球界』、
「日本野球連盟回覧板」
というコラム。
「連盟には四つの英語名の
 チームがある」?
大阪タイガース、イーグルス、
東京セネタース、ライオン。

すでに東京ジャイアンツでなく、
東京巨人軍が定着してたのかと。
ちなみに「巨」ユニは、
復刻されていないのです。


※「野球帽の研究」は綱島理友さんの
 『野球帽大図鑑』を参考にしています。

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