「KANO」列伝② 呉昌征

『KANO』で
野球部の練習場に入り浸っている
近所の少年…「呉 波(ごは)
卒業後、日本のプロ野球で活躍
人間機関車」の異名をとったのちの
呉 昌征」その人です。

あのタイガースのダイナマイト打線
切り込み隊長だったのです。
円熟期を迎えていた1948年の
ラインナップはこんな感じ…
一番・呉 昌征、二番・金田正泰、
三番・別当 薫、四番・藤村富美男、
五番・土井垣武、六番・玉置玉一、
七番・後藤次男、八番・長谷川善三。
時計回りに
呉、金田、別当、土井垣、藤村 

 「1916年(大正5)に現在の
 高雄市である台南市に生まれ、
 ちょうど嘉農が甲子園に出場した
 1931年(昭和6)に嘉義農林に入学した。
 ずば抜けた運動能力で、
 陸上界からの誘いもあったが、
 小里の影響で野球をはじめたという。」

1933年夏、1935年春夏、
1936年夏の甲子園大会に出場。
左投左打で投手と外野手を兼任し、
4度の甲子園出場のうち
3度も甲子園の土を踏んだ
KANO黄金期メンバーの一人。

KANO卒後は東京巨人軍に入団。
首位打者、MVPとなり、
1944年から阪神に移籍し
盗塁王になっています。
日本のプロ野球史上で
初の台湾出身選手。

戦局悪化でプロ野球が中止になった
1945年には、阪神電鉄の農業部に配属され、
甲子園球場のグラウンドに芋畑を作るため、
農業指導員として活躍されたことがあるとか…
戦時中の甲子園球場長、
石田恒信さんが描いた「終戦時の球場略図」

戦後復活したプロ野球だが、
選手不足は否めず阪神でも全選手で26人。
1946年6月16日に西宮球場で行われた
セネタース5回戦で先発投手として登板。
122球を投げ四死球5個を与えただけの
ノーヒットノーランを達成
これは戦後初のノーヒットノーラン記録です。

 毎日とあるがユニはタイガースの呉

一流の投手がその野球人生で
一度できるかわからない偉業を、
外野手が本業ながらも
成し遂げてしまったスーパーマン。
今から達成するのは
日ハムの大谷ぐらいかも知れません。

その後 毎日オリオンズでプレー。
移籍の1950年には、
日本シリーズ第1号本塁打を放った。
この年記録の16試合連続得点、
破ったのは2001年の小笠原道大選手で、
なんと50年以上日本記録だったのです。

1957年に現役を引退されますが、
プロ野球実働20年というのは
前例のないものでした。
1987年にこの世を去られましたが、
1995年に台湾人として
初の野球殿堂入りを果たされています。



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