2015年2月20日金曜日

「KANO」列伝④ 蘇 正生

「2番 センター 蘇正生」
(そ・しょうせい)

『KANO』のうち3人は日本人、
蘇正生ら2人は「本島人」と呼ばれ、
4人は先住民族「高砂族」だったそうです。
中京商との決勝戦に寄せた
作家 菊池寛の甲子園印象記にこうある
「日本人、本島人、
 高砂族という変わった人種が
 同じ目的のため共同し
 努力しているということが、
 何となく
 涙ぐましい感じを起こさせる」と。
写真は嘉義大学に設置された
近藤兵太郎監督と蘇正生選手の彫像。

日本敗戦後、台湾は中華民国のものとなった。
国民党軍による反対派弾圧事件で
2万ともいわれる死者が出た歴史が残る。
蘇のチームメートだった陳耕元らは
混乱をさけて田舎に帰り、
先住民のために学校を作り野球を教えた。

蘇正生さんは
甲子園第二回戦の札幌商校戦で、
最も遠い外野レフトスタンドの壁に当てる
三塁打を放ったという怪物だった。
そして近藤兵太郎監督は、
愛媛の松山商で監督をしていた人。
球は霊(たま)なり」の碑は
松山の坊っちゃんスタジアム近くに
2014年10月に設置されたのだそうです。

『KANO』メンバー中では最も長生きし、
嘉農の「語り部」でもあった。
「嘉農口述歴史」に彼の言葉が残る。

「(天下の嘉農の成功の)功労者は
近藤先生である事は言うまでもありません。
近藤先生は日本中等野球の名門校、
松山商業の優秀な選手で、
アメリカに遠征した強者で実力は抜群でした。
のち嘉義商工専修学校の会計を担当、
その傍ら嘉農の要請で
野球のコーチを兼ねていました。
然し本職が商工学校だったので、
毎日のように私達を
コーチする事は出来なかったのです。
依って嘉義農林野球部はある方面から言って
自治制、自発的精神のもとで成長してきたと
言っても良いのではないでしょうか。」  
 「戦後は故郷の
 台南県東山郷の郷公所に勤め、
 少年野球などで後進の育成にあたった。
 晩年、忘れられていた嘉義農林が再び
 注目されるようになってからは、
 最後のメンバーとして
  台湾野球界の「国宝」と呼ばれたが、
 2008年に96歳で亡くなった。」
KANOが台湾に持ち帰った
準優勝盾である朝日牌」は、
戦後行方知れずになったそうです。
1996年に日台友好の印として復刻、
当時84歳の蘇正生さんに手渡されました。

参考:日本さくら交流協会HP
「台湾・精神を伝承する陽光桜の植樹式並びに
 嘉義大学近藤兵太郎と蘇正生の銅像除幕式」