後白河法皇の御姿〜法住寺


「養源院」のおとなりは「法住寺」。
後白河法皇が院の御所として創建した
法住寺殿」はこの場所にありまして、
法皇のお墓である法華堂をお守りされています。

そもそも法住寺は989年(永祚元)に、
藤原為光が自身の夫人と息女を
弔うために創立されたのだそうです。
当時の法住寺の寺域は、
いまの東福寺のあたりから
北は七条通りよりさらに北におよび、
東は法輪寺を除いた東山の山すそに延び、
西は今の大和大路にまでおよんでいたとか。

後白河天皇が1158年(保元3)に
皇位を皇子の二条天皇に譲られ、
この場所を院の御所として定められたとか。
二条天皇をはじめ多くの皇族方が
この御所に訪れたと伝わります。

「旧御陵正門」

三十三間堂の影に隠れるような
存在になっていますが、
蓮華王院である三十三間堂こそ、
法住殿内のお堂に過ぎなかったのです。

三十三間堂の千躰の観音様は、
東を向いて立っておられます。
なぜかというと...
後白河天皇法住寺陵」におられる
後白河法皇像の御前立と対面しているから。

運慶作と伝わる後白河法皇御木像は、
ふだんは目にすることはできません。
5月3日の後白河法皇忌にあわせて、
年に一度だけ...
訪れたのは5月4日。
この日は八〇〇御忌に造営された
像と対面することができました。

後白河法皇木像」(法住寺案内より)

 このお寺に伝わるもう一つの秘仏。
親鸞のそば食い木像
法住寺は天台宗のお寺なのですが、
浄土真宗開祖の親鸞聖人自作の像。

親鸞が範宴という号で比叡山に

居たころの話...
「毎晩都へ下りて明け方になって
山に帰ってくるということが、三ヶ月以上続いた。
そのころ、親鸞は叡山仏教の堕落と
偽善に我慢できなくて、
六角堂に百日参籠していたのであるが、
相弟子の僧たちは、
都の女のもとに通うのだろうと噂をしあった。
そんな噂を耳にした師の慈鎮は心をいため、
ある夜、
蕎麦を食べようといって弟子たちを突然呼び集めた。
集まった弟子たちの名を順によんでいって
「範宴」と呼ぶと「はい」と返事があった。
うわさは本当ではなかったと安心して
弟子たちと蕎麦を食べた。
明け方に帰ってきた範宴と弟子たちはおどろいた。
範宴が二人居るはずがないとさわいでいると
弟子の一人が穏やかな顔をして
座っている範宴の自刻の像をみつけた。」

聖人山刀(なた)作の如来像
範宴として修行を重ねていたとき、
親鸞さんが自刻とされたものと伝わる。
足に親鸞の花押が
朱と墨で記されているという。
このお寺には
赤穂義士の木造もありましたし、
なんと長谷川町子さんのご仏壇も。
「静かでいいところ」と好まれていたお寺で、
今も静かに眠っておられます。
サザエさんやタラちゃん、ワカメちゃんなど、
直筆のイラストも飾られていました。
なんとも奥の深いお寺でしたよ。

梁塵秘抄』の冒頭
「あそびをせんとやうまれけん」の碑。

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