湖東三山のもみぢば〜龍應山 西明寺 二天門より本堂内陣へ


"湖東三山のもみぢば"
西明寺の山号の由来は、
琵東に位置しており、
東を護る四神 青龍、
龍應山
と名付けられました。

四天王の内、持国・増長の二天が
守るので二天門
と言われます。
門は1407年(応永14)の建造、
「門が建った頃、入口を守っている
 二王(本当は二天)さんが
 『おれがいるのに戸がいるか!』と
怒鳴って足で蹴飛ばしたと…
遠く西江州(湖西)まで飛んでいった
という伝説があるそうで。
中央の四本の親柱の前後に合わせて
8本の控柱があり"八脚門"といいます。

1571年(元亀2)の織田信長 配下の
丹羽長秀により西明寺は、
焼き討ちに遭ったのですが、
本堂と三重塔、
そして二天門・二天王立像は
難を逃れました。

寄木造で二体共に像の高さは19.5m、
1429年(正長2) 院尋仏師の作、
甲良町指定文化財ではあるけれど、
作者と制作年代の分かる木像、
もう少し評価されてもいいかも。

秘仏の薬師如来立像を本尊とする
西明寺は由来書によれば、
仁明天皇の勅願 834年(承和元)の開創、
勅願寺として大寺院として繁栄。
本堂の建物様式から鎌倉前期の
建立されたものと考えられています。
当初は正面五間、側面五間の"五間堂"、
寺勢の増大により室町前期に
周囲を一間ずつ拡張し
七間堂として改造されたそうです。

入母屋造で檜皮葺、
両妻に瓦葺を模した木製の鬼と
熨斗、唐草、巴文様を木製造の前包、
檜皮葺の屋根に瓦葺の部材が
備えられているのは珍しい
ものです。

別名"瑠璃殿" とも呼ばれ、
宮殿建築の優美さを偲ばせる
蔀戸に吹寄格子戸

折上小組格天井など…

本堂内陣
御本尊 薬師如来は秘仏とされ、
脇持仏は日光・月光菩薩、
そして眷属である十二神将、
四天王が須弥壇に祀られていました。
 
日光・月光菩薩像 

日光菩薩は日輪を載せた金蓮華、
月光菩薩は月輪を載せた青蓮華を
それぞれ事物とし、悉皆金色身。
高い髻や装飾的に表された天冠台、
腰布結び紐のうねるような表現、
宋代中国の影響がみられる
鎌倉時代の好例
となっています。
江戸時代の修復銘があり、
光背には梵字を書した鏡面が
十三面配されています。

須弥壇の外側右には広目天

左には多聞天

子 宮毘羅大将
宮比羅(ぐうびら)大将は、
仏教の水運の神。
薬師如来十二神将の筆頭、
新薬師寺では亥年とされるが、
十二支の割り当ては
4通りくらいあるそうで

西明寺の宮比羅には頭上に
ねずみを頂いています。

丑 伐折羅大将
「伐折羅 (ばさら)」は、
中世日本の婆沙羅に通じ、
華美で常識にとらわれない
派手な振る舞いを指す
言葉の語源とも。
寅 迷企羅(めきら)大将

卯 安底羅(あんらち)大将

辰 頞儞羅(あにら)大将

巳 珊底羅(さんちら)大将

牛 因達羅(いんだら)大将

未 波夷羅(はいら)大将

申 魔虎羅(まこら)大将

酉 真達羅(しんだら)大将

戌 招杜羅(しょうとら)大将
ピース✌️してはるし(笑)

亥 毘羯羅(びきゃら)大将
像のお姿は絵葉書と
西明寺のパンフレットより…

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