湖東三山のもみぢば〜龍應山 西明寺 本堂後陣

1571年(元亀2)の信長の焼討、
丹羽長秀と川尻秀隆の
手によるものだったそうです。
武士が責め込んだ時、
多数の僧侶と農民が
手を取り合って寺を
守ったと伝わります。
丹羽と川尻が見逃す訳ないが、
全焼を認めて引き上げた…
そんなことが真相かと思います。

特別拝観で本堂後陣を
見させてもらいました。
後陣の仏さまのお姿は、
西明寺の図録によるものです。

本堂後陣中央の護摩壇に
護摩供養の本尊として
安置される不動三尊像。
中央に不動明王坐像、
右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、
左に制多迦童子(せいたかどうじ)が
配されています。
矜羯羅童子はサンスクリット語で
「何をするべきか問い、
その通りに動く者」を意味。
制多迦童子は不動明王の"方便"を
後陣の仏さまのお姿は、
西明寺の図録によるものです。

本堂後陣中央の護摩壇に
護摩供養の本尊として
安置される不動三尊像。
中央に不動明王坐像、
右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、
左に制多迦童子(せいたかどうじ)が
配されています。
矜羯羅童子はサンスクリット語で
「何をするべきか問い、
その通りに動く者」を意味。
制多迦童子は不動明王の"方便"を
象徴しているそうです。

元三大師良源像
元三大師と呼ばれるのは、
良源が正月三日に入滅したことに

元三大師良源像
元三大師と呼ばれるのは、
良源が正月三日に入滅したことに
ちなむのだそうです。
近江国浅井郡に生まれ、
後に天台座主となって
比叡山の復興に努めた良源。
並外れた業績から、
中世には観音の化身とみなされ、
天台宗寺院で広く信仰されます。
塑土で仕上げたいわゆる塑像だが、
塑像ではあるが"玉眼"が用いられ、
中世の造像例としては
全国的にも珍しいものです。
玉眼とは、水晶などの眼球を
埋め込んだ技法のことです。

不動三尊像の傍に
清凉寺式釈迦如来像が
おられました。
鎌倉時代以降に流行し、
縄目状の頭髪や、
同心円状の衣文が配された
袈裟を通肩に着す点は
原像の姿を忠実に写しています。
翻波式(ほんぱしき)と呼ばれる
波文様がリズミカルに
翻ったりしていて、
檜材の木目との調和が
取れています。

左手には弁財天がおられました。
老人の頭をもち白蛇の形をした
五穀豊穣の神とされる
宇賀神を頭上にいただき、
鳥居を冠した八本の手を持つ
竹生島形の八臂像の弁才天像が
祀らていていました。

阿弥陀三尊立像は檜の寄木造り、
鎌倉時代が三尊として
現存している例は
近江でも珍しいそうで、
寺伝によると安阿弥、
いわゆる快慶の作とか。

流罪となった親鸞聖人は
越後へ向かう途中に、
西明寺へ立ち寄られたとか。
当時西明寺には、
比叡山時代に勉学修業を
共にした兄弟分がおられ、
法然聖人と過ごした日々を
懐かしく語られたとか…
寺には伝わっています。
彦根辺りから舟で湖北へ、
襟巻きを巻き、
手は衣の中へ入れたお姿です。

江戸時代のはじめのこと、
寺伝によると
延宝年間(1673-1681)に
京都の久遠寿院の公海大僧正が
彦根藩に所用で向かう途中、
西明寺の門前を通りかかった、
門前で物言いたげな
2匹の黒猫を見つけたそうです。
猫たちの後を追ってみると、
信長兵火でを衰微荒廃の
西明寺本堂前に辿り着く。

天台の名刹の荒廃を嘆き、
甲賀郡野田の地頭を遣わし、
全面的な復興が行われました。
再び夢の中に
二匹の黒猫が現われ、
「我等は西明寺を護る二天也。
努めよ。努めよ。」と…
目覚めると手に
猫のひっかき傷のような跡、
僧侶は改心し寺の維持管理に
努めたと云われます。
近江国浅井郡に生まれ、
後に天台座主となって
比叡山の復興に努めた良源。
並外れた業績から、
中世には観音の化身とみなされ、
天台宗寺院で広く信仰されます。
塑土で仕上げたいわゆる塑像だが、
塑像ではあるが"玉眼"が用いられ、
中世の造像例としては
全国的にも珍しいものです。
玉眼とは、水晶などの眼球を
埋め込んだ技法のことです。

不動三尊像の傍に
清凉寺式釈迦如来像が
おられました。
鎌倉時代以降に流行し、
縄目状の頭髪や、
同心円状の衣文が配された
袈裟を通肩に着す点は
原像の姿を忠実に写しています。
翻波式(ほんぱしき)と呼ばれる
波文様がリズミカルに
翻ったりしていて、
檜材の木目との調和が
取れています。

左手には弁財天がおられました。
老人の頭をもち白蛇の形をした
五穀豊穣の神とされる
宇賀神を頭上にいただき、
鳥居を冠した八本の手を持つ
竹生島形の八臂像の弁才天像が
祀らていていました。

阿弥陀三尊立像は檜の寄木造り、
鎌倉時代が三尊として
現存している例は
近江でも珍しいそうで、
寺伝によると安阿弥、
いわゆる快慶の作とか。

流罪となった親鸞聖人は
越後へ向かう途中に、
西明寺へ立ち寄られたとか。
当時西明寺には、
比叡山時代に勉学修業を
共にした兄弟分がおられ、
法然聖人と過ごした日々を
懐かしく語られたとか…
寺には伝わっています。
彦根辺りから舟で湖北へ、
襟巻きを巻き、
手は衣の中へ入れたお姿です。

江戸時代のはじめのこと、
寺伝によると
延宝年間(1673-1681)に
京都の久遠寿院の公海大僧正が
彦根藩に所用で向かう途中、
西明寺の門前を通りかかった、
門前で物言いたげな
2匹の黒猫を見つけたそうです。
猫たちの後を追ってみると、
信長兵火でを衰微荒廃の
西明寺本堂前に辿り着く。

天台の名刹の荒廃を嘆き、
甲賀郡野田の地頭を遣わし、
全面的な復興が行われました。
再び夢の中に
二匹の黒猫が現われ、
「我等は西明寺を護る二天也。
努めよ。努めよ。」と…
目覚めると手に
猫のひっかき傷のような跡、
僧侶は改心し寺の維持管理に
努めたと云われます。

御前立秘仏 虎薬師の台座の虎、
秘仏なので満願成就記念より。
彦根藩第四代藩主 井伊直興が寄進、
当時は日本に虎がおらず 、
仏師が黒猫の姿を元にして
金色の縞模様をつけ、
虎の姿を表現したとか。

次回は三重塔と蓬萊庭へ
秘仏なので満願成就記念より。
彦根藩第四代藩主 井伊直興が寄進、
当時は日本に虎がおらず 、
仏師が黒猫の姿を元にして
金色の縞模様をつけ、
虎の姿を表現したとか。

次回は三重塔と蓬萊庭へ