村野藤吾のファサード⑬ 日本生命日比谷ビル
記念碑的な性格を
施主から求められたビル。
「日本生命日比谷ビル」…
日生劇場が入る。
「建物には商業的な要求は
何一つ与えられなかったが、
天下の大保険会社として、
建物にはいくらかの記念的な
性格のようなものが求められた。
記念的性格というのは、
あまりに商業的な性格は避けて
永久性のある表現の意味である。
時代の建築的変遷とその影響を
あまり敏感に受けないような
建物のことである。
この要望に沿うような
表現をするために、
もっとも相応しい材料を先ず
選定しなければならないが、
今日のところ花崗岩以外に
良質の材料は見当たらないので、
建物の外装として
この材料を用いることにした。」※
岡山産の万成石(まんなりいし)に
たどり着いたのだそうだ。
石の処理は日本銀行大阪支店を
参考としたとか…
ファサードにガラス面を避けたのは、
劇場に窓を必要としない部分が
多いというだけではなくて、
窓のガラスを後退させている。
その外にバルコニー開口周りに
飾り石によるデザインを施し、
黒の紋様の手摺りがみえ、
重厚な印象を持たせている。
一方が会社の事務用部分、
他方が劇場部分になる建物。
全く機能を異にする要素が、
一つの建物に二分して存在。
「構造的にも
建築的な芸術の点からいっても、
統一と調和を与えることは、
実はそう簡単な問題ではない。」※1
と村野さんは語っている。
1階にはピロティという共用部分。
自転車?のような
手がけたものだという。
村野さんはローマン=スタイルという、
研磨なしを希望していたそうだが、
人々の行き交う場所での
安全性を慮った日生側の要望で
最終的に機械研磨となったそうだ。
建物の半分に劇場=空洞が出来、
他の半分が重層となる
構造的な問題だけでなく、
一方が純然たるビジネスを表現、
そして他方で華やかな劇場の表現。
出入りする人間の表情も、服装も、
そして気分は全く異なる。
矛盾した要素が混在するビル、
どう調和させるかは
大きな課題であった。
「客席を上にあげて
1階部分を開放する
ということに帰着したのである。
いうまでもなく建物を商業的な
採算一方の考えでいくなら、
例外なしにこの部分の価値は、
他の階に数倍するであろうことは、
市街地建築を商業的に見た
場合の通念である。
このように非常なバリュウを有する
部分を開放するということは、
もとより一建築家の設計で
なし得ることではない。」※1
「現在のところ我国では、
これだけ多くの部分を解放して、
これを一般の用に提供する
ということは前例に乏しく、
結果は都市景観としても、
また都市計画的にいっても
好ましい状態となったことは、
なんだか生命保険会社という
特別な使命を持っている
会社の理想のようなものが
志向されているように思う。
そこで1階はただ社会
村野さんはローマン=スタイルという、
研磨なしを希望していたそうだが、
人々の行き交う場所での
安全性を慮った日生側の要望で
最終的に機械研磨となったそうだ。
建物の半分に劇場=空洞が出来、
他の半分が重層となる
構造的な問題だけでなく、
一方が純然たるビジネスを表現、
そして他方で華やかな劇場の表現。
出入りする人間の表情も、服装も、
そして気分は全く異なる。
矛盾した要素が混在するビル、
どう調和させるかは
大きな課題であった。
「客席を上にあげて
1階部分を開放する
ということに帰着したのである。
いうまでもなく建物を商業的な
採算一方の考えでいくなら、
例外なしにこの部分の価値は、
他の階に数倍するであろうことは、
市街地建築を商業的に見た
場合の通念である。
このように非常なバリュウを有する
部分を開放するということは、
もとより一建築家の設計で
なし得ることではない。」※1
「現在のところ我国では、
これだけ多くの部分を解放して、
これを一般の用に提供する
ということは前例に乏しく、
結果は都市景観としても、
また都市計画的にいっても
好ましい状態となったことは、
なんだか生命保険会社という
特別な使命を持っている
会社の理想のようなものが
志向されているように思う。
そこで1階はただ社会
というものだけを対照に…」※1
「この建物の設計に当たって、
会社からは商業主義的な要求は
何一つ与えられなかった。
ただ天下の大保険会社として、
建物にはいくらか記念的な性格
のようなものが望まれた。
記念的性格というのは、
あまりに商業的な表現を避けて
永久性のある表現の意味である。」※1
1階部分をピロティとして開放、
有楽町そごうとは、建物の役割が違う。
施主の理解なく実現はなかった…
村野さんが施主の意向を、
どのようにカタチにしていくか、
2つの建物で多くのことが伺える。
「日本生命日比谷ビル」
(日生劇場)
竣工年:1963年(昭和38)
設 計:村野藤吾
構 造:鉄骨鉄筋コンクリート造
地下5階・地上8階・塔屋3階
20世紀のイタリアを代表する彫刻家。
唯一の内弟子が日本人女性であり、
安田侃を初めとする彫刻家や、
土方定一ら評論家など、師事傾倒した。