大学をあるく⑤京都大学 電話拡張交換室 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 投稿者: 虎次郎 - 2月 09, 2017 印象的な時計台と赤レンガで、 目立たないけどユニークな レンガタイルの建物は、 もと「電話拡張交換室」。 保健診療所として使われている 1925年(大正14)竣工のデザイン性 あふれるベッピンさん。 張り出した庇。 設計は武田五一と永瀬狂三、 毎日新聞京都支局を連想させる 武田五一らしいテイストです。 三条通御幸町東南角にある旧 大阪毎日新聞社京都支局ビル、 「1928ビル」。 二度にわたる改修が施されてきたが、 当初のデザインの保持が見事です。 コンクリぶりが外階段が しっかりと主張しています。 小さな連続アーチ窓とのバランス。 「京都大学 旧電話拡張交換室」 →京都大学・保険診療所 竣工年:1925年(大正14) 増築年:1931年、1936年 設計 :武田五一、永瀬狂三 構造 :鉄筋コンクリート造り2階建て リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
異界との出入り口《春日権現験記絵》 投稿者: 虎次郎 - 9月 16, 2021 『 春日権現験記絵 巻八 』の一場面 板葺きの屋根の軒先から、 腰に 小槌を差した赤鬼 が家の中を 逆さまにのぞき込む。 家の中では 男が激しく嘔吐 … ただ事ではないことは察しがつきます。 屋根の上の鬼は男に 取り憑こうとしている "疫病神" 。 《 化物昼寝鼾 》見越し入道ら 鳥居清長画 1784年 逆さまにのぞき込む異形 … 恐怖を呼ぶ一つのパターン。 現代の 都市伝説 にも、 車のフロ ントガラスの上から 逆さまの顔がすっと下りてくるとか… 妖怪の見越し入道 にも、 後ろからぐっと首を伸ばして 顔を逆さまに出してくる。 妖怪や幽霊が上の方から 逆さまに姿を現すというのは、 恐怖を感じるパターンとか。 ただ『春日権現験記絵』家人たちは、 鬼に気が付いていないと言うより、 見えていないのだと思います。 病人のいる家の外に 石が置かれ 、 祭壇を置いたあとも見えます。 小屋の中には既に命を引き取った とみられる女が横たわっていて、 《病草紙》 の形相ともみえます。 詞書にはこうある… 「弥生の朔日、河原に出たるに、 傍らなる車に、法師の紙を冠にて 博士だちをるを憎みて 祓戸の神の飾りの幣帛に 転も紛ふ 耳はさみかな」 「 耳はさみ 」とは、 林立した幣帛に紛れた紙冠、 もしくは、場にふさわしからざる 法師その人を指す とか… 呪術を終えて帰っていくのは 陰陽師 の" 声聞師 "※1か それとも僧形の" 宿曜師 "※2か。 さらに左に絵巻をたどると、 物々しい武士の一段。 詞書によると、館の主である 大舎人入道の夢にでてきた武士 。 人の目には見えない疫鬼、 夢の中でだけみることができる 武士の一団も疫病が可視化されたもの。 14世紀初頭の制作された時代、 "鬼と武士"に異形なる存在 に、 疫病の姿が表されているのです。※3 実は 武士の登場は巻二 にみえ… 残虐なシーンを描き出し、 武士が世を騒がし、 厄災を撒き散らす存在 として、 共有されていたことを 焼き付けさせていました。 巻六第一段には、 地獄の表現 がみられます。 実はこのシーンは、 春日明神のおはからいで 地獄行きを逃れた男。 春日明神の案内で " 地獄ツアー "の一幕なのです。 この男は 興... 続きを読む
『新島襄の愛した石たち』の出版に寄せて 投稿者: 虎次郎 - 12月 21, 2025 2025年11月に 同志社大学地学研究会 さんが、 『新島襄の愛した石たち』 を 発行されました。 冒頭に "新島襄の戸棚" の写真が 掲載されています。 2011年の ホームカミングデー で 新島旧邸 を見学したときの一枚です。 ブログ にはこう綴っていました… 「 隅には化石や鉱石などの 棚があります。 実は新島襄は アーモスト大学の理学コースで、 地質学を学んでいたようです。 」 『新島襄の愛した石たち』 に 掲載されたページがこちらです。 『新島襄の愛した石たち』 より 以下引用させていただきます。 「その後、 新島八重 夫人は、 1907(明治40)年に京都御所の すぐ東隣にある 新島襄旧邸 を 同志社に寄付し、 1932(昭和7)年6月14日に 逝去するまで、そこに住んでいた。 この新島襄旧邸に、 岩石や鉄物や貝などの 標本が存在することは、 余り知られていない。 新島襄がアメリカに渡り すっかり虜になったと考えられる 石集めや、ちょっとしたものを 持ち帰る癖によって集められた標本が、 戸棚に収納されていた。 書斎の机には石が文鎮代わりに 四つ置かれていた。 」 新島襄旧邸 にあった 「自筆文書」などの資料は、 1942(昭和17)年に、 今出川学舎旧図書館啓明館の そばにできた 遺品庫 (ヴォーリズ建築事務所設計)に 収納されている。 しかし、 新島襄旧邸の 「新島襄標本」 は 遺品庫に入れられていない。 新島襄の死後もずっと 新島襄旧邸の戸棚に収 納されたままであった。 このように扱われていたということは、 これらの標本類は、 あまり価値がないものと 見なされていたのであろう。 新島襄旧邸は、社宅として 使われていた時期もあったが、 1970年頃には「新島襄旧邸」として 整備されていたようである。 「新島襄標本」 の管理も旧邸の管理に 準じていたと考えられる。」 1993年発行の 『新島襄ーその時代と生涯』 には、 このように綴られています。 「春夏の休暇中は、かなり長期にわたる 徒歩旅行に出かけている。 鉱物採集や各地の見学が目的であった。」 ブログの "新島襄の戸棚" の写真を 見つけていただいたのは、 同志大学地学研究会OB の方より、 今年の3月にメールが届きました。 「新島旧邸の戸棚にあ... 続きを読む
太閤秀吉を辿る vol.11 加藤清正と島津義弘の虎退治 投稿者: 虎次郎 - 2月 06, 2022 《朝鮮之役ニ清正猛虎ヲ撃》 橋本周延 1889年 豊臣秀吉 の子飼い衆の 加藤清正 、 幼名が "虎之介" とだったこともあり、 虎との縁は深く 豊臣秀吉の"虎"への執着 、 歴史のなかで繋がっていくというお話。 『絵本太閤記』「清正虎退治」 『絵本太閤記』 にはこうあります… 「清正が野営していた時、 一匹の虎が馬をくわえて 飛び出してきた。また、 虎は小姓をも食い殺されたため 、 清正は山中を狩り立てる。 大岩の上から大きな虎を 見つけた清正は、 自ら虎を仕留めんと、 家来たち百人ばかりが鉄砲で 撃とうとするのを押しとどめ、 襲い掛かる虎の喉を狙って 鉄砲を撃ちこむと、 さしもの虎も息絶えた。 」と。 《和藤内虎狩之図》歌川国芳 近松の浄瑠璃『 国性爺合戦 』の 主人公 和藤内 が雪の中、 虎退治する情景の三枚摺。 槍の先には大きな虎… 咥えられもう抵抗することのない 武者の身体から静けさが漂います 。 長烏帽子に蛇の目紋の 槍を持つ和藤内… 明国人の父と日本人の母の間に 日本で生まれた和藤内が、 父の祖国の復興のために渡った 唐土で虎退治を行う有名な場面。 加藤清正 であることを示すに十分… 幕府の出版に対する検閲により、 加藤清正としては描かずです。 加藤清正の虎退治は近代の引札にも… でも一番の疑問は 虎之介 と名乗る 加藤清正がなぜ虎退治 したのでしょう。 『絵本太閤記』「加藤虎之助の伝」 清正の秀吉の出会いについては、 裏付ける当時の史料が残されておらず、 後世の創作という可能性が高いのですが… 領地に関する確認できる史料においては、 清正が19歳の時に秀吉から 近江国120石を与えられるのが初見 。 『絵本太閤記』「豊臣家奥業勇士之像」 長浜城下で乱暴者を召し捕った褒美、 200万を加増されたとの『 清正記 』の 記述も後期の創作と思われるのです。 伝記などには 「虎之助」 とありますが、 秀吉が宛てた手紙には「虎介」 … 清正の20歳ころの 花押もその組み合わせ 、 正しくは" 虎之介 "なのだとされます。 《島津家朝鮮虎狩絵巻》 九州国立博物館 蔵 実は 虎退治のオリジナル は、 島津義弘 なのだとも伝わっています。 義弘は二度の朝鮮出兵に従軍、 大きな戦... 続きを読む
湖東三山のもみぢば〜松峯山 金剛輪寺 本堂大悲閣へ 投稿者: 虎次郎 - 12月 17, 2025 金剛輪寺 は山号を 松峯山 、 開山は 聖武天皇の勅願 で 行基 菩薩により741年(天平13)。 比叡山より 慈覚大師 が来山し、 天台密教の道場に、 天台宗の大寺院となりました。 本堂内陣の左手に祀られる 開祖 行基菩薩 と 中興の祖 慈覚大師円仁 。 12世紀末から13世紀の造像で、 数少ない大師の古像として 貴重な存在となっています。 そして 比叡山中興の祖 、 慈恵大師 良源像 。 観音様の化身 とも言われ、 観音三十三身の数、 あるいはその倍数の像を造立、 ご利益を求めることがあったとか。 惣門 には" 聖観音 "の大きな提灯、 " 黒門 "とも呼ばれ、 1794年(寛政6)に建立されたもの。 近江西国 第十五番の御詠歌 「 分け入りて 仏の恵み 松の峰 嵐も法も 声かとぞ聞 く」 山門から本堂までの長い石段、 山岳城郭であったころの趣を 今なお残していました。 まさに "分け入りて"の本堂へ … 石段を登りつめたところに、 僧の機智により織田信長の 焼き打ちによる焼失の 難を免れた本堂大悲閣、 三重塔、二天門があります。 長い山道を登ると最後に 虎次郎ゴロシの石段、 二天門 を見上げたころは、 バテバテで写真なし。 当初は 八脚門の楼門 でしたが、 のちに上層が失われたそうです。 自然石が礎石に用いられ、 和様であって室町時代のもの。 右に 増長天 をまつる。 左に 持国天 、いずれも 金剛柵 が 設けられています。 本堂 大悲閣 入母屋造りの檜皮葺で 七間四面の豪壮な建物です。 " 大悲閣 "とは慈悲の仏である 観音さまのいらっしゃる所 、 全国各地に大悲閣がありますね。 本堂外陣の正面の扁額は、 聖武天皇の宸筆 とされる。 宸筆(しんぴつ)とは、 天皇(天子)ご自身が書かれたの意。 1952年に国宝指定、 東京オリンピック で、 日本建築の代表として精巧な 10分の1の模型が制作され、 東京国立博物館の記念展 で展示、 海外からの人たちにも 多く知られるようになったそうです。 文永弘安の両役 に鎌倉の 北条時宗 が 近江守護佐々木頼綱に命じ、 近江国中の祈祷寺社に 元軍降伏の祈願を修せしめ 元軍が敗北した。 そこで、 守護 佐々木頼綱 は 本堂を再興したと伝わります。... 続きを読む
湖東三山のもみぢば〜龍應山 西明寺 三重塔〜蓬萊庭 投稿者: 虎次郎 - 12月 17, 2025 鎌倉後期の様式の好例の 三重塔 、 檜皮葺で初重の戸口や窓の周りに、 各層の屋根の下に見える 斗拱(ときょう)の特徴があります。 軽快な弓形を描いて 軒は次第に上層へと登っていきます 。 扉を開けると… きらびやかな色の世界。 特別公開は春と秋の2回、 参拝した次の週だったようです。 初層は須弥壇と床を除き、 壁と天井の全面彩色 。 中央の須弥壇に 大日如来像 。 周囲に立つ四天柱には 三十二の菩薩像が描かれ、 曼荼羅が構成されているとか。 天井は 折上小組格天井 巨勢金岡 (こせのかなおか) 一族によるとされる極彩色。 四隅の丸柱には 八大竜王 。 龍や極楽鳥が飛び交い、 牡丹や菊、宝相華で 埋め尽されているとか。 霊木の 夫婦杉は樹齢約1000年 、 元々2本であった木が寄り添い 一つになったという。 後側から子どものような若木、 子授け、安産の霊木とされています。 蓬萊庭 は江戸時代 1673年(延宝元)、 望月友閑 (ゆうかん)が、 西明寺復興を期に作庭したもの。 鶴島と亀島があり 心宇池 をなす 池泉回遊式となっています。 築山の立石群 は本堂に安置の 本尊薬師如来、日光・月光菩薩、 十二神将等の眷属を表し、 植木の刈り込みは雲を形どって 薬師の浄瑠璃浄土 を 具現化したものなんだとか。 鎌倉時代の 八角石灯籠 は、 石屋弥陀六 の作。 小堀遠州 の作庭を参考にした造園、 室町時代を偲ぶ石灯籠もあった。 こちら オウゴンイタヤモミジ 、 黄金板屋紅葉と書きます。 不断桜 も花をつけていました。 西明寺のもみぢば はこれでお終いです。 続きを読む