はるばる来たぜHAKODATE vol.1 五稜郭
星型の城 "五稜郭"…
大沼スキー場にスキーシーズンに
函館空港に降り立ったことはあるけど、
雪のない函館には初上陸でした。
札幌・千歳に4泊滞在の予定でしたが、
前線停滞の予報が分かっていたので、
いざ函館へ!!
一般道だと約250km、約4時間40分。
高速道路は室蘭へ大回りの270km3時間半、
「特急スーパー北斗」の約3時間16分が
早いということもあり、
車窓を楽しみながら向かいました。
JR北海道にあった本州との比較…
名古屋から伊勢湾沿いに志摩まで、
近鉄特急だと2時間半だけど、
スーパー北斗は気動車なので…
北海道の大きさを改めて実感!
まさに"はるばる来たぜHAKODATE "、
函館の一つ前の駅が五稜郭。
ホテルに荷物預けてから、
函館の市電に乗って〜
まずは星型を確認せねばなるまい。
2006年4月1日にオープンの
五稜郭タワーから高みの見物を!
タワーは2代目だそうで…
初代は1964年12月に
五稜郭築城100年を記念して
建てられた高さ60m、
二代目は高さ107mを誇っています。
昭和30年代はタワー林立の時代、
札幌テレビ塔は1957年、
京都タワーも同じ1964年に建っている。
展望2階は"五稜郭歴史回廊"、
まさに星型城がくっきりと、
城内の箱館奉行所も見える。
函館山や津軽海峡、横津連峰の山並みも
晴天に映えていました。
250分1スケールの五稜郭復元模型
ゆるきゃらパネルもありました。
1853年(嘉永6)の黒船来航で、
日米和親条約が締結され、
下田とともに"開港場"となった箱館、
外国との交渉や防衛をに担う
"箱館奉行"を配置するものの、
港に至近で艦船からの標的になりやすい…
移転を余儀なくされたのである。
箱館奉行に在勤していた
蘭学者 武田斐三郎に、
外郭施設の土塁設計を命じます。
フランス軍人からの情報・教授をもとに、
ヨーロッパで発達した城郭都市をモデルに…
ただ設計当初から星形の土塁を
計画していたわけではなかったとか。
星型を形づくる5つの角は、
稜堡(りょうほ)と呼ばれ、
土を盛って作られています。
火器の発明以前はレンガや石でできた
高い城壁や塔で防衛されていました。
しかし、大砲が発明されると、
標的となって
砲弾によって生じた破片で、
より多くの負傷者を
より多くの負傷者を
生むことがわかりました。
城壁は低くなり、衝撃を吸収できる
土を盛り上げたものへと変化していったと…
城内には武田斐三郎の顕彰碑がありました。
1862年(文久2)からは、
五稜郭の内部で御役所の建築が始まり、
五稜郭築造から約7年がたった1864年、
御役所の建物がほぼ完成していたようです。
箱館山の麓から奉行所は移転し、
新役所での仕事が始まったことで、
五稜郭が蝦夷地の政治的中心になりました。
ただ大政奉還で奉行所は新政府に移管、
1868年(明治元)5月には箱館奉行から
明治政府の箱館裁判所総督へと
事務の引継ぎが整然と行われ、
わずか4年で幕を降ろすことに。
江戸城の無血開城を潔しとしない
旧幕府陸軍の残存諸隊…
旧幕府海軍の副総裁である榎本武揚、
北関東から東北地方を転戦してきた
土方歳三に率いられた新選組などの
旧幕府軍の諸隊や抗戦を叫ぶ
東北諸藩の部隊を艦隊に加え蝦夷地へ…
1868年10月20日、
3,000名ほどに膨れ上がった旧幕府軍、
領事館や商社のある箱館への上陸を避け、
内浦湾の鷲ノ木沖へ投錨、吹雪の中を上陸…
その後新政府軍が1869年3月9日、
蝦夷地へ向け品川沖より艦隊出航。
圧倒的な戦力で迫る新政府軍、
土方歳三の指揮する部隊も
退路を断たれることを恐れた
五稜郭本部からの命令で撤退。
5月18日の早朝、
渡島半島全域を半年間にわたって
戦火に包んだ箱館戦争が終結します。
五稜郭に立てこもった旧幕府軍、
攻防に長けた城をもってしても、
旧幕府軍が勝てなかったのはなぜ?
当初の建設計画では、五稜郭の出入り口に
5つの小さな要塞 "半月堡"を設け、
出撃と防衛を効果的に行う予定でした。
しかし予算の関係から、
1カ所しか設置されませんでした。
加えて、五稜郭から一定の距離をとった
周囲に7つの砲台を設けることで、
直接砲撃されないようにとの計画
不完全な設備のまま戊辰戦争を
迎えていたのです。
箱館戦争の終結後、
五稜郭は再び兵部省の所管となりますが、
二度と行政府として歴史に
城壁は低くなり、衝撃を吸収できる
土を盛り上げたものへと変化していったと…
城内には武田斐三郎の顕彰碑がありました。
1862年(文久2)からは、
五稜郭の内部で御役所の建築が始まり、
五稜郭築造から約7年がたった1864年、
御役所の建物がほぼ完成していたようです。
箱館山の麓から奉行所は移転し、
新役所での仕事が始まったことで、
五稜郭が蝦夷地の政治的中心になりました。
ただ大政奉還で奉行所は新政府に移管、
1868年(明治元)5月には箱館奉行から
明治政府の箱館裁判所総督へと
事務の引継ぎが整然と行われ、
わずか4年で幕を降ろすことに。
江戸城の無血開城を潔しとしない
旧幕府陸軍の残存諸隊…
旧幕府海軍の副総裁である榎本武揚、
北関東から東北地方を転戦してきた
土方歳三に率いられた新選組などの
旧幕府軍の諸隊や抗戦を叫ぶ
東北諸藩の部隊を艦隊に加え蝦夷地へ…
1868年10月20日、
3,000名ほどに膨れ上がった旧幕府軍、
領事館や商社のある箱館への上陸を避け、
内浦湾の鷲ノ木沖へ投錨、吹雪の中を上陸…
その後新政府軍が1869年3月9日、
蝦夷地へ向け品川沖より艦隊出航。
圧倒的な戦力で迫る新政府軍、
土方歳三の指揮する部隊も
退路を断たれることを恐れた
五稜郭本部からの命令で撤退。
5月18日の早朝、
渡島半島全域を半年間にわたって
戦火に包んだ箱館戦争が終結します。
五稜郭に立てこもった旧幕府軍、
攻防に長けた城をもってしても、
旧幕府軍が勝てなかったのはなぜ?
当初の建設計画では、五稜郭の出入り口に
5つの小さな要塞 "半月堡"を設け、
出撃と防衛を効果的に行う予定でした。
しかし予算の関係から、
1カ所しか設置されませんでした。
加えて、五稜郭から一定の距離をとった
周囲に7つの砲台を設けることで、
直接砲撃されないようにとの計画
不完全な設備のまま戊辰戦争を
迎えていたのです。
箱館戦争の終結後、
五稜郭は再び兵部省の所管となりますが、
二度と行政府として歴史に
現れることはありませんでした。
1871年(明治4)には御役所庁舎は解体、
広場となった跡地は
1871年(明治4)には御役所庁舎は解体、
広場となった跡地は
明治の陸軍の練兵場だったそうです。
1985年から郭内の遺構調査が進められ、
2010年になってようやく3分の1の
規模ではあるものの、当時と同じ場所、
伝統工法、同じ材木を使用して
御役所庁舎が復元されたとのこと。
1985年から郭内の遺構調査が進められ、
2010年になってようやく3分の1の
規模ではあるものの、当時と同じ場所、
伝統工法、同じ材木を使用して
御役所庁舎が復元されたとのこと。