太子霊場めぐりvol.3 物部守屋の弔い
大聖勝軍寺より国道25号線を
100m程東に進んだところに
物部守屋の墓があります。
「物部守屋大連墳」と刻まれる。
『日本書紀』には
物部弓削守屋大連とみえ、
敏達天皇の御代に、
仏教の受容に積極的態度をとる
蘇我馬子と対立し、
中臣勝海とともに排仏を主張…
寺院や仏像を焼き捨てたとか。
大聖勝軍寺の門前に「守屋池」。
聖徳太子が迹見赤檮に
鏑矢で守屋を射させ、
秦河勝がその首を取って、
この池で洗ったとの伝え…
「守屋首洗池」とも。
『河内名所図会』によると、
塚状の丘の上に一本松のある
姿が描かれているのですが…
貝原益軒の『南遊紀行』にも、
「跡部村、…守屋の頭塚・
躯墳(むくみづか)とて、
小塚二有。
頭塚は北に在て、松生たり。
躯塚は南に在。ただ春草のみ生たり。
守屋の大臣わが国の神をとうとび、
西域の神をふせぎ給ひし故、
厩戸皇子 憎み深くして、
罪なくて逆臣と称して、
冤殺(えんさつ)せられし処、
みるに忍び難し」と綴られいて、
仏教導入に反対したため逆賊との
評が長らく続いていたようです。
堺県知事 小河一敏が、
顕彰の碑と石灯籠を建てたのは、
明治に入ってからのこと。
1967年に大阪府神社庁中河内分会にり、
「物部守屋公顕彰碑」が建立。
ずらりと全国有数の神社の玉垣で
取り囲まれたのは1987年のこと。
そもそも蘇我・物部両氏の対立を、
仏教受容の可否をめぐる争いを
中心に語られることが多いのですが、
仏家の教化的意図を中心とした
説話にもとづくと考えられています。
『日本書紀』にもみえる
守屋の排仏行為そのものは、
史実としてみられないのでして、
歴史の捉え方をよく表す例、
権力闘争に勝った側の意図が
反映されているのだと思います。
守屋は自ら子弟と奴軍を率い、
奮戦むなしくついに
迹見赤檮に射落とされ、
その子らも殺され、軍は四散。
馬子との戦いでは、
『朴の枝 間に昇りて
臨み射ること 雨の如し』と…
「史跡 弓代塚」の立つ路地を、
フェンスに囲まれた送電線鉄塔の
囲いの手前に「史蹟 弓代」。
"迹見赤檮発箭地"とも刻まれています。
発箭(はっせん)とは矢を発した所
迹見赤檮は"とみの いちい"
イチイという樹は弓の材とされ、
イチイの学名 taxus cuspidata、
ギリシャ語訳は「急に尖った弓」。
放たれた矢にも塚がありました。
「史蹟 鏑矢塚」
鏑矢塚には案内板があり、
『河内名所図会』も
紹介されていました。
守屋は矢作部、弓削部など弓矢を
製造する職人を配下にもち、
軍備を増強する一方、
その勢力を誇っていました。
矢作りの生命は「矢の尾」にあり、
"八尾"は"矢尾"にもとるとか…
守屋自身が矢で射られたのは、
さぞや無念であったことかと。
すでに廃曲になっていますが、
能「守屋」という謡曲。
前ジテは、
春日山神の化現としての老翁。
守屋征誅の合戦で、
太子があわやという時、御馬は昇天、
太子の姿は樹の中に消えてしまう。
守屋は杣の老翁に命じて
不審の樹を伐らせようとするが、
神木を伐ることの恐ろしさを
聞かされて退散する。
翁は春日山神の化身だったとか。
守屋を射落とす功績の迹見赤檮…
物部守屋は榎の木に登り、
指揮をしていたそうです。
同じように弓矢で射られても、
聖徳太子は近くにあったのが
椋の木だったため
樹洞の中に隠れることができた。
榎に上っていたので樹洞がなく、
守屋は中に隠れることができず
死んでしまったという話…
いわゆる"丁未(ていび)の乱"の
キッカケとなったのは、
用明天皇の
「自分は仏・法・僧三宝に
帰依したいと思う。
卿らもよく考えて欲しい」
と命じたところ、。
物部守屋と中臣勝海は、
「どうして我が国の神に背いて、
他国の神を敬うことがあろうか。
大体このようなことは
今まで聞いたことがない」と反論。
「椋はなっても木は榎」、
榎とムクが似ていることの所以。
格言の意味は、
榎の実がなろうが何がなろうが、
椋の木と一度言い出したら、
主張は変えないという意とか。
仏教が国を護ったか、
神の造りし国なのか…
守屋も太子も後に引けない戦いを
繰り広げたということを
物語っているように思えます。
《大日本名将鑑 厩戸皇子》
月岡芳年 1877年
矢を放つのは太子ですが、
明治のころの錦絵での創作です。