野球帽の研究 第1講義〜組み文字


1982-1990 阪神タイガース

おなじみのTHマーク。
導入はじめは
スイカ帽とも揶揄されましたが、
初の日本一でゲイルが決めた、
西武球場ではこの帽子でした。
THマークが付けれた1961年は、
阪神タイガースと改称した年。

「タイガースもついに
 企業名にしてしまったか」
と、
世間でも囁かれていたそうです。
甲子園があるのは兵庫県西宮市、
今でもそれを訴えるかのように、
西宮・甲子園」という看板が、
球場前の高架道路に掲げられています。

1975-1985 読売ジャイアンツ

宿敵ジャイアンツはYGマーク、
その登場は1954年のこと。
実は微妙に変化してきたもの。
ニューヨーク・ジャイアンツ
NYマークがヒントになっています。
Gの水平だった下の部分が
膨らんだ感じになっていたのが、
V9時代でスタイルでした。
YGをモデルにした
ジャビット登場は1992年。
球団によると、宇宙人であり
ウサギではないとのこと。
どうでもいいが…

1953 読売ジャイアンツ

東京とジャイアンツを
組み合わせたTGマーク。
サンタマリア・キャンプで
海外キャンプをしたのだが、
その時に現地で作られたのがコレ。
メジャーリーグ御用達の
ウィルソン社製でして、
ビジユニにTOKYOの文字が
入ったのがこの年が初めて。

1960 大阪タイガース

NHK朝ドラ「エール」のモデル、
古関裕而さんは阪神タイガースの
球団歌「六甲おろし」の作曲家です。
大阪タイガースの時代に作られたので、
最初は「オウオウ大阪タイガース」と、
韻を踏んでいたのです。
デザインはタイガースの意匠を
長年手掛けた早川源一さんの
手によるものですが、
この帽子は1年の短命でした。

2004-2011 中日ドラゴンズ

中日といえばCDマーク。
「中日ドラゴンズの
イメージそのもの」
という落合監督の意見で
復活させたもの。
一時期に使われていた
ドジャース似のレタリングが
気に入らなかったのかも。
ちなみに初代球団歌
「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」、
作曲者は古関裕而さんでした。

1936 阪急

日本のプロ野球の最初の
組み文字帽は阪急でした。
当初は阪急ベアーズと名乗ったが、
オープン戦でパッとしなかったので、
急遽 公募をやってブレーブスに。
大阪阪急をあらわすOとH

1969 南海ホークス

Hのマークは電車の車軸。
オレンジ色にした1969年は、
鶴岡一人監督が勇退した翌年。
50勝76敗4分で最下位に…
飯田徳治監督は解任となり、
野村克也
プレーニング・マネージャーに。

1958 広島カープ

カープがはじめてチームカラーに
赤を採用したのが1958年。
阪急ブレーブス、大毎オリオンズに
似ているとしてこのCH
赤い組み文字は1年限り。

1973前期 
日拓ホームフライヤーズ

日本ハムファイターズ
前身は日拓ホームフライヤーズ
東急=>急映
=>東映と目まぐるしく
球団名を変えたのです。
日拓ホームは当時の
不動産ブームで急成長した会社、
しかし世間的には無名な企業。
映画産業も斜陽となって、
1972年オフに東映が球団を
手放すことになり、
引き受けたのは日拓ホーム。

西村昭孝オーナーは
「大好きな野球界の
 未来に貢献したい」
と、
1年間であったが、なかなかの
インパクトを残した。
その一つが、
7色のユニフォーム
張本勲、大杉勝男らが、
このポップなユニフォームを
着たのかと思うと。
センセーショナルだったはず。

1966-1968 西鉄ライオンズ

胸マークや背番号にオレンジ色の
縁取りが入った1966年モデル。
NL三原脩元監督と
豊田泰光兼任コーチが
1962年に考案したものとか。

1977-1978
クラウンライターライオンズ

西鉄ライオンズは黒い霧事件
ダメージを払拭できずに低迷。
その後リゾート開発の太平洋クラブ
ネーミングライツ契約での球団継続に。
契約が切れると…
使い捨て100円ライターで業績を
伸ばしていたクラウンライター
引き継いだのだが、成績は低迷。
印象的な出来事といえば、
1977年の江川卓と1位指名かも、
後の"空白の一日"につながっていく。

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