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京都の近代化遺産ゆ〜三栖閘門

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京阪・中書島 に近づくと、 車窓から目に入る「 三栖閘門 」。 日本酒ひやおろし を 求める ついでに、 秋空のもと観てきました。 陸上交通が 発達していなかったまでは、 京都~大阪間は 淀川舟運 が 輸送手段の要でした。 1918年(大正7)に始まった 「 淀川改修増補工事 」により、 伏見港と宇治川との船の通航が できなくなったものを、 淀川へとつながる宇治川と濠川との 間を船が通航できるようにしたのが、 三栖閘門なのです。 こちら宇治川側… かなり水位差があります。 というのも、洪水を防ぐための 宇治川改修や天ケ瀬ダムの完成で、 宇治川の水位が低下します。 陸上輸送が発達により、 淀川舟運とともに、 70年の役割を終えています。 1929(昭和4)3月31日に完成。 三栖閘門の建設は、 淀川改修増補工事のなかで 最も大規模な工事でした。 その費用は30万1,241円13銭… 大卒初任給なんかで比較すると、 70億円以上 とも言われます。 電動チェーン式の巻上機で… 「 鋼製ストーニーゲート 」 を釣り上げる。 とってもパワフルなんです。 そして、 土木学会指定の 建築土木遺産 なのです。 十石舟 往来のため、 伏見港側は揚げられていました。 こちらの巻上機は健在なのです。 月桂冠大倉記念館 の裏から、 三栖閘門往復で乗船できます。 閘門を出ると… ちょうど このあたりが河川管理境界、 府と国交省で管轄の境目 。 4本の 扉室塔 (びしつとう) は 鉄筋鉄骨コンクリート、 高さは16.6mあります。 閘門の設計は、 明治政府が1872年に オランダから招聘した治水技師 ヨハネス・デレーケ さん。 淀川や木曽三川をはじめ、 我が国の主要な河川の治水に 関与した偉材だったそうです。 そばに「 三栖閘門資料館 」。 もとは操作室だったそうです。 「三栖閘門施設模型」 解説映像と模型の動きで、 閘門の役割と動き… ザンネンながら調整中(T_T) 江戸時代のころの 伏見港 のようす。 「 内務省 」の紋がのこる鬼瓦。 宇治川サイドの巻上機は、 資料館裏手に保存されていました。 ...

京都の近代化遺産ゆ〜有鄰館

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平安神宮の疎水に面し、 前から気になっていたフシギ館。 「 有鄰館 」を… 屋上に朱塗りの 八角堂 が見え隠れ。 少し引くと軒下が見えた… 実は建物ではなく展示物。 北京の 紫禁城 の一角にあったもので、 道路拡幅工事で削り取られることに… その話を聞いたオーナーが 設計変更、 有鄰館の屋上に移転したという訳。 建物は中国の古材で造られ、 屋根は 清朝乾隆 年製の 黄釉瓦 で葺かれている。 設計者はよく近代化遺産建築で、 おなじみの 武田五一 。 武田の展示品応じたデザイン展開、 穏やかで簡素な外観も特徴的。 1926年(大正15)に建てられたもの、 最近補修がされたようです。 正式には藤井斉成会有鄰館第一館、 私設美術館としえは東京にある 大倉集古館 に次いで古い。 建築物としては 私設美術館の現存最古。 ちなみに大倉集古館は、 現在改修中で2019年まで休館中。 有鄰館という名前は、 「 徳は孤ならず必ず鄰有り 」と 中国との善隣と友好を願い 『論語』にその出典を求めます。 玄関の額縁廻りの 龍の装飾パネルなど、 バルコニーなど装飾パネルは テラコッタ が用いられています。 スチールサッシの建具に至るまで、 建設当初からのものが伝えられました。 内部の陳列室も古い形が、 ほぼそのまま残されているとか… というのも…中観てません(T_T) 大正15年以来の「 定日一般公開 」、 1月、8月を除く 毎月第1、第3日曜日のみの 開館なのです… 滋賀県五個荘出身の実業家、 藤井善助 ※ (1873~1943)が、 収集した東洋美術のコレクションを 保存公開するため財団法人設立、 その陳列館として建てられたのが、 この第一館なのです。 バルコニーがある内側は 貴賓室とか… 「藤井斉成会 有鄰館(藤井有鄰館)」 建築年:1926年(大正15) 設計 :武田五一 所在地:京都市左京区岡崎円勝寺町44 【京都市登録有形文化財】 ※ 藤井善助 実業家。滋賀県生。京都市第一商業学校卒業後、 織物・綿糸販売に従事。中ノ島製紙...

コンクリ寺を行くvol.6 太融寺

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「コンクリ寺を行く」 今回は梅田のいわば都会の雑踏の どまんなかの 太融寺 さん。 一時は天皇の位を望んだとも…の、 左大臣 源融 (みなもとのとおる) の旧蹟。 藤原氏の反対にあい悲願は叶わず、 あの 平等院 の地は、 源融の営んだ別荘だったそうです。 七堂伽藍を建立し、 “ 融 ”の名をとって寺名にしたとか。 821年に 弘法大師 が 嵯峨天皇の勅願により創建、 1615年大坂城落城のとき全焼。 その後元禄年間に復興すると、 “北野の太融寺”として栄えたそうです。 第2次大戦の空襲で全焼したが、 戦後再建されて今日に至ります。 空襲で延宝三年(1675)鋳造の梵鐘が 難を逃れたことから、 「 カネが残ったゲンのいい寺 」、 御利益から無病息災の信仰を集めます。 鐘楼は1973年の再建です。 本堂は1960年( 昭和35)の再建。 擬宝珠は寺格を示しています。 「 一願堂 」の上にある?宝塔。 「一願堂」の御本尊不動明王は、 戦後再刻されたもの。 戦前の不動明王は、 お滝の洞窟内の「 奥之院 」に。 本堂裏手にも参道がありまして… 霊助の実例枚挙にいとまなし、 とのことで多くの信仰を集めます。 榎木稲荷 なる小さな社も。 宝塔の御本尊は大日如来さま。 護摩堂の前には 錫杖 がありました。 境内には 淀殿の墓所、 明治時代にここに移されてきたとか。 豊臣家にゆかりの深かったとか… 大阪城外鴨野郷 弁天島に一祠を 作って埋められたそうです。 明治になって 城東練兵場 造成があり、 移祀されてきたとの記録。 もとは九輪の塔だったのですが、 こちらもを戦火にて六輪塔。 おそばに「白龍天神」。 寺紋は「 一文字に三つ星 」 毛利家の家紋と知られますが… 平安時代の皇族である 阿保親王 が、 死後に最も高い一品(いっぽん)の 品位を追贈されたことに因んで、 図案化されたものといわれます。 源融も 死後正一位を 追贈 されてます、 同じ由縁かも知れませぬ。 芭蕉句碑 「 しら菊の 目に立て見る     塵もなし 」 「 国会期成同盟発祥の地 」 でもあるとか… ...