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盛夏2025 湖東をゆく 長浜慶雲館で" 立体曼茶羅" に遭遇

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松山 淳さんの "立体曼茶羅" !! 長浜市の慶雲館で開催中の "長浜国際芸術祭2025"で遭遇。 観音様を中心に四天王が取り囲む。 手前の座敷には"ダイエット菩薩" こちらは2009年に誕生 240cmもある。 こちら太っちょさん♡ すらっとさん! ならんだらこうなるとか "ぐらびあ観音"は2004年 作 旅館の大広間でのアクション…・・ 「夕食等のおもてなしをしていた  場所でしたが、  旅館を辞められて  長らく空きスペースに。  展示した当時、  床が抜けそうで  今後使用することはない場所として、  持ち主の方が消極的だった」とか 須弥壇の周りも賑やかだったとか。 アーティスト松山 淳さんの 作品説明… 「私の作品の仏像には 、  まゆをひそめて怒っているか  困惑しているかに見える  モデルがいる。  それはメディアによる  「消費の対象」として  捉えられていることへの  抵抗である。  私は、メディアを通して  形成される現代人の意識を  仏像の姿を借りて  表現している。」 邪鬼 踏まれとる

盛夏2025 湖東をゆく 長浜市高月町・渡岸寺観音堂

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国宝に指定される 十一面観音 は、 全国で七体 あるのですが、 日本彫刻史上の最高傑作、 最も美しいとされる観音さま、 長浜市 高月町 におられます。 祀られているのは" 渡岸寺観音堂 "、 もとは慈雲山光眼寺という 天台宗の寺院でした。 聖武天皇の御世は疱瘡が蔓延 、 人々の苦しみは大変なもの。 年号は"天平"… そもそも年号は時の帝の願いが こめられていますので、 天は大いに平らなるものでは、 なかったのです。 天平8年(736)に聖武天皇が、 越前福井の出身で加賀白山で 修行をしていた高僧 泰澄大師 に、 除災招福を勅命され、 奈良の都へお上りになる際に、 観音像を彫られたと 寺伝として遺されています。 霊験あらたかな観音として 信仰されていたようで、 桓武天皇 の延歴年間には 比叡山の 最澄 が勅を奉じて 七堂伽藍を建立するなどして、 隆盛をみせていたそうです。 転機を迎えたのが 姉川合戦 、 戦火を浴びて伽藍は焼失。 ただ観音様を敬う村人たちが、 観音様を運び出し土中に埋め、 難を免れたとか… 注目されたのは1888年(明治21)、 九鬼隆一氏や フェノロサ が、 調査に訪れたことが契機に。 1897年に 古社寺保存法 が制定、 法隆寺などの国宝指定と同じ年、 特別国宝に指定されたのです。 国立国会図書館  デジタルコレクション より 十一面観音像の多くは 頭上に十一面をつくり、 本面と合わせると 十二面になるものが多いが、 この像は本面合わせて十一面 。 一番上の面は仏頂面といわれ " 如来相 "であらわすことが 経典で決められているのですが、 この像は" 菩薩相 "で、 冠には五仏をつけています。 裏側の1面は" 大笑面 "とも " 暴悪大笑面 "ともいわれる相… 笑いっぷりがすごい。 大きな耳飾りをつけていて 顔立ちもふくめ異国風。 精巧な胸飾りは別材で、 当初のものとみられています。 体は細身でとりわけ腰が細く、 収蔵庫に展示されているので、 ぐるっと回って拝観。 絶妙な姿勢のバランス、 美形そのものなのです。 最澄の後継者である 円仁の思想に関係 するとも… 初期天台宗の木彫の 貴重な作例であるとされた。 国宝観音像にラインナッ...

盛夏2025 湖東をゆく 米原・青岸寺

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盛夏のころ米原市の 青岸寺 へ 本尊 木造聖観音菩薩坐像 は、 1375年(永和元)に 佐々木六角氏頼 により 金剛仏師 讃岐法眼 尭尊 に 刻ませたものです。 左手に 未敷蓮華 (みふれんげ)を握り、 右手は添えるようにかまえ、 右足を外にして 結跏趺坐 の形。 天台宗系の密教像 で あるとみられています。 像底部の墨書から 仏師 尭尊(ぎょうそん)は 三条門弟とあり、 京仏師の流れをくむ 仏師と考えられれています。 曹洞宗 吸湖山 青岸寺 吸湖山 (きゅうこざん)という山号… 延文年間(1356年 - 1381年)、 近江守護の 京極高氏 によって 不動山米泉寺 の名で創建。 戦国時代焼失、慶安3年(1650年)に 彦根藩主 井伊直澄 の命により、 敦賀の住民 伊藤五郎助 の援助を得て 再興されました。 このとき 曹洞宗 に改宗され、 彦根市河原にある 大雲寺 の末寺に。 明暦2年(1656年)、 伊藤五郎助が没したことを悼み、 五郎助の 諡 "青岸宗天"  に因んで 青岸寺と改めたときに、 山号も吸湖山へと改めたそうです。 湖東に点在する 近江七福神 の 一つでもあり 福禄寿 がお出迎え。 築山林泉式枯山水 の庭園は、 1934年12月に国指定名勝に 指定されました。 1000m以上にも及ぶ広い庭園一面に、 多数の石が豪華に配置されています。 右手奥の高所に 三尊石 を兼ねた 二段構成の枯滝石組を組み上げ、 滝組から水がほとばしり、 中央の池に流れ込み、 大海に変わっていく様子が、 石組と苔により表現されています。 海には亀の上に鶴が乗った様を 石組で表す 蓬莱島 、 切石の反り橋 が架けられています。 青岸寺の 寄せ灯篭 、 竿は 織部灯篭 、字形はなく像のみ、 中台は灯篭の笠を逆にして 使用した六角形、 各々のところに小穴があり、 もとは風鈴のようなものが 釣り下げられていたと思われる。 六角の火袋に地蔵尊 が浮き彫り、 笠は蓮華寺風ともされるが、 抽木形の折衷とも…。 作庭される際に、 持ち運ばれて置かれたようだが、 どこから持ち運ばれたのか?。 蹲もさまざま 1904年(明治37)に書院と 渡り廊下が建てられたときに、 庭園の地割が改変され、 庭園上部の枯山水庭園は、 書院のために造られたものとか。 1904年(明治37)に永平寺 ...