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遊郭の残照 鯛よし百番 第一幕 東海道中へ

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「鯛よし 百番」 に潜伏してきた… いわゆるオオバコの遊郭だったとこ、 本当の料理が出てくる(笑)お店なので、 予約して年の瀬に" すき焼き "を。 大仰な唐破風 をいただくエントランス、 その佇まいに二階に並ぶ紅い提灯、 江戸時代の吉原の廓を連想させます。 国の登録有形文化財の指定 は、 2000年2月のこと。 ただ登録文化財になっても、 行政から補修費などは一銭も 出ないのです。 オーナーがいつも補修を重ねられ、 維持されてきました。 行政ではなく補修が成し得たのは、 2021年6月30日にスタートの クラウドファンディング でした。 地元の西成区の不動産会社 サミット不動産 を営む杉浦正彦さんが 立ち上げられたものです。 コロナ禍で飛田にも大きな影 … 売り上げは2割以下の水準に、 団体客がめっきりと減少。 感染収束後を見据え CF に踏み切った。 「このままでは手遅れになる。  どうしても思い切った策が  必要だった」 店の運営会社の三宅一守さんの決断。 修復作業に携わったのは、 当時の 大阪市立大学建築学科 の 学生たちでした。 建物の現況調査にはじまり図面の作成、 改修の設計などを 大阪市立大学 が 連携して行ったそうです。 「建物を保存・活用していくには、  かなりお金が必要ですので、  周りの人を巻き込んで  それを実現していくというところを、  一連の流れで関わらせて  いただくということは、  今後彼らが活躍していく上では、  必須のスキルになると思うので、  学生の教育という面でも  ぜひさせてくださいと」 大阪市立大学の西野雄一郎 講師 の 申し出でした。 一例としてですが… 破風板下部に取り付けられた 懸魚である" 兔の毛通し " は、 既存のものに合わせ再製作され 彩色が施されましたし、 看板文字には金箔押し 。 時代と共にあまり使われなくなった 入口まわりには、電気設備の架台や 空調機の室外機などで 雑然としていましたが、 それらの移設なども 合わせて行われました。 店破風をくぐり、内部に入ります。 玄関の東側に設けられた 板戸のある舞台風の一画。 板の間になっていて、 手摺がめぐらされていて、 "顔見せ "をする場所として 設えとなっていますが、 "娼妓(しょうぎ)...

湖東三山のもみぢば〜松峯山 金剛輪寺 水雲閣と赤報隊のこと

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明壽院庭園 にある" 水雲閣 "、 ここは幕末の歴史の1ページを 刻む舞台となった場所なんです。 明治新政府の東山道鎮撫総督指揮下の 一部隊であり 岩倉具視 の了承を得、 西郷隆盛は" 赤報隊 "を結成。 1868年(慶応4年)1月8日、 隊長は 相楽総三 で、 三番隊には近江出身の者が多く、 水口藩士が中心だったとのこと。 「赤心を持って国恩に報いる」 隊、 "赤心"とは嘘いつわりのない、 ありのままの心 のことの意味。 本尊の 聖観世音菩薩 は 「 生身の観音 」とも呼ばれていて、 行基 が彫刀を進めると 木肌から赤い血が一筋流れ 、 粗彫りのまま本尊として 安置したというから、 "赤報"に相応しい場所 だったとも、 考えられたのかもしれません。 明壽院は金剛輪寺の本坊で、 1673年(寛文13)には記録がみられ、 金剛輪寺では下方三分の一を 寺域を占めています。 江戸時代の創建の明壽院は、 学頭所として使われていました。 南・東・北の三方を囲むように 作庭年代の異なる3つの庭園があり、 国の名勝に指定されています。 桃山時代、江戸初期、江戸中期の 三つの時代での作庭がみられます。 夏の季節には池一面の睡蓮(が 清楚な花を咲かせるの庭に、 池中に 七福神の宝船 を表わす 岩でできた舟が配されています。 山畔に 宝篋印塔 を配しています。  そして池泉観賞式の庭園は、 書院から観賞できるように なってようになっています。 作庭時期についての資料はなく、 幕末に部分的な記事があるとか。 京都曼殊院 に属していて、 改庭が度重ねて行われ、 現在に至ったのでしょうか。 いくつもの時代を 複合しながらも、 全体としての鑑賞上も優れおり、 名勝庭園として 指定された理由でもあります。。 アカメヤナギの古木が景趣を添え、 山の斜面に植え込まれた アカマツとサツキの群れ、 巨木群が狭い山容の奥深さ、 紅葉の色を際立たせていました。 赤報隊その後を追います… 東海道先鋒総督府の指揮下に入り 桑名への進軍を命じられたが、 隊長は 相楽総三 は独断で東山道へ、 各地で「 年貢半減 」を布告。 これが新政府の不興を買った、 略奪行為を行う"偽官軍 "と 見なされたと伝わります。 新政府の...