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『新島襄の愛した石たち』の出版に寄せて

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2025年11月に 同志社大学地学研究会 さんが、 『新島襄の愛した石たち』 を 発行されました。 冒頭に "新島襄の戸棚" の写真が 掲載されています。 2011年の ホームカミングデー で 新島旧邸 を見学したときの一枚です。 ブログ にはこう綴っていました… 「 隅には化石や鉱石などの  棚があります。  実は新島襄は  アーモスト大学の理学コースで、  地質学を学んでいたようです。 」 『新島襄の愛した石たち』 に 掲載されたページがこちらです。 『新島襄の愛した石たち』 より 以下引用させていただきます。 「その後、 新島八重 夫人は、 1907(明治40)年に京都御所の すぐ東隣にある 新島襄旧邸 を 同志社に寄付し、 1932(昭和7)年6月14日に 逝去するまで、そこに住んでいた。 この新島襄旧邸に、 岩石や鉄物や貝などの 標本が存在することは、 余り知られていない。 新島襄がアメリカに渡り すっかり虜になったと考えられる 石集めや、ちょっとしたものを 持ち帰る癖によって集められた標本が、 戸棚に収納されていた。 書斎の机には石が文鎮代わりに 四つ置かれていた。 」 新島襄旧邸 にあった 「自筆文書」などの資料は、 1942(昭和17)年に、 今出川学舎旧図書館啓明館の そばにできた 遺品庫 (ヴォーリズ建築事務所設計)に 収納されている。 しかし、 新島襄旧邸の 「新島襄標本」 は 遺品庫に入れられていない。 新島襄の死後もずっと 新島襄旧邸の戸棚に収 納されたままであった。 このように扱われていたということは、 これらの標本類は、 あまり価値がないものと 見なされていたのであろう。 新島襄旧邸は、社宅として 使われていた時期もあったが、 1970年頃には「新島襄旧邸」として 整備されていたようである。 「新島襄標本」 の管理も旧邸の管理に 準じていたと考えられる。」 1993年発行の 『新島襄ーその時代と生涯』 には、 このように綴られています。 「春夏の休暇中は、かなり長期にわたる  徒歩旅行に出かけている。  鉱物採集や各地の見学が目的であった。」 ブログの "新島襄の戸棚" の写真を 見つけていただいたのは、 同志大学地学研究会OB の方より、 今年の3月にメールが届きました。 「新島旧邸の戸棚にあ...

湖東三山のもみぢば〜松峯山 金剛輪寺 本堂大悲閣へ

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金剛輪寺 は山号を 松峯山 、 開山は 聖武天皇の勅願 で 行基 菩薩により741年(天平13)。 比叡山より 慈覚大師 が来山し、 天台密教の道場に、 天台宗の大寺院となりました。 本堂内陣の左手に祀られる 開祖 行基菩薩 と 中興の祖 慈覚大師円仁 。 12世紀末から13世紀の造像で、 数少ない大師の古像として 貴重な存在となっています。 そして 比叡山中興の祖 、 慈恵大師 良源像 。 観音様の化身 とも言われ、 観音三十三身の数、 あるいはその倍数の像を造立、 ご利益を求めることがあったとか。 惣門 には" 聖観音 "の大きな提灯、 " 黒門 "とも呼ばれ、 1794年(寛政6)に建立されたもの。 近江西国 第十五番の御詠歌 「 分け入りて 仏の恵み  松の峰 嵐も法も 声かとぞ聞 く」 山門から本堂までの長い石段、 山岳城郭であったころの趣を 今なお残していました。 まさに "分け入りて"の本堂へ … 石段を登りつめたところに、 僧の機智により織田信長の 焼き打ちによる焼失の 難を免れた本堂大悲閣、 三重塔、二天門があります。 長い山道を登ると最後に 虎次郎ゴロシの石段、 二天門 を見上げたころは、 バテバテで写真なし。 当初は 八脚門の楼門 でしたが、 のちに上層が失われたそうです。 自然石が礎石に用いられ、 和様であって室町時代のもの。 右に 増長天 をまつる。 左に 持国天 、いずれも 金剛柵 が 設けられています。 本堂 大悲閣 入母屋造りの檜皮葺で 七間四面の豪壮な建物です。 " 大悲閣 "とは慈悲の仏である 観音さまのいらっしゃる所 、 全国各地に大悲閣がありますね。 本堂外陣の正面の扁額は、 聖武天皇の宸筆 とされる。 宸筆(しんぴつ)とは、 天皇(天子)ご自身が書かれたの意。 1952年に国宝指定、 東京オリンピック で、 日本建築の代表として精巧な 10分の1の模型が制作され、 東京国立博物館の記念展 で展示、 海外からの人たちにも 多く知られるようになったそうです。 文永弘安の両役 に鎌倉の 北条時宗 が 近江守護佐々木頼綱に命じ、 近江国中の祈祷寺社に 元軍降伏の祈願を修せしめ 元軍が敗北した。 そこで、 守護 佐々木頼綱 は 本堂を再興したと伝わります。...

湖東三山のもみぢば〜龍應山 西明寺 三重塔〜蓬萊庭

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鎌倉後期の様式の好例の 三重塔 、 檜皮葺で初重の戸口や窓の周りに、 各層の屋根の下に見える 斗拱(ときょう)の特徴があります。 軽快な弓形を描いて 軒は次第に上層へと登っていきます 。 扉を開けると… きらびやかな色の世界。 特別公開は春と秋の2回、 参拝した次の週だったようです。 初層は須弥壇と床を除き、 壁と天井の全面彩色 。 中央の須弥壇に 大日如来像 。 周囲に立つ四天柱には 三十二の菩薩像が描かれ、 曼荼羅が構成されているとか。 天井は 折上小組格天井 巨勢金岡 (こせのかなおか) 一族によるとされる極彩色。 四隅の丸柱には 八大竜王 。 龍や極楽鳥が飛び交い、 牡丹や菊、宝相華で 埋め尽されているとか。 霊木の 夫婦杉は樹齢約1000年 、 元々2本であった木が寄り添い 一つになったという。 後側から子どものような若木、 子授け、安産の霊木とされています。 蓬萊庭 は江戸時代 1673年(延宝元)、 望月友閑 (ゆうかん)が、 西明寺復興を期に作庭したもの。 鶴島と亀島があり 心宇池 をなす 池泉回遊式となっています。 築山の立石群 は本堂に安置の 本尊薬師如来、日光・月光菩薩、 十二神将等の眷属を表し、 植木の刈り込みは雲を形どって 薬師の浄瑠璃浄土 を 具現化したものなんだとか。 鎌倉時代の 八角石灯籠 は、 石屋弥陀六 の作。 小堀遠州 の作庭を参考にした造園、 室町時代を偲ぶ石灯籠もあった。 こちら オウゴンイタヤモミジ 、 黄金板屋紅葉と書きます。 不断桜 も花をつけていました。 西明寺のもみぢば はこれでお終いです。