2024OKINAWAめもりーず〜玉陵


2024OKINAWAめもりーず
守礼門に首里城は
何度か訪れていましたが、
はじめての玉陵(たまうどぅん)へ、
行ってきました。

世界遺産登録は2000年12月のこと。
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
2018年12月25日になって、
沖縄県内で建造物の初の国宝指定へ。

全体のつくりは、琉球王朝当時の
板葺き屋根の宮殿を表した
石造建造物にで墓域は2.442平方m。

まずは奉円館にておべんきょー。

玉陵は1501年に、
尚真王が父 尚円王の遺骨改葬ため築き、
その後、第二尚氏王統の陵墓に。

玉陵内に収められる蔵骨器



歴代王たちの蔵骨器が写真パネルに…



"玉御殿御家屋之図"
(たまうどぅんうちかやのず)

沖縄の墓の原型は、崖の中腹の隙間、
穴を利用して棺を収め、
前面を石で覆う崖葬墓だったそうです。
父 尚円王も元々 見上森(みあげもり)
ミアギムーイと呼ばれる丘に、
葬られていたのですが、
現在は確認できませんが、
玉陵ビラという坂の近くと伝わります。

国王と王妃が眠る部屋 "東室"、
37基の厨子が納められていて、
尚円王から続く歴代と王妃ら
40人が眠っています。

墓室の入口には、石の扉があり、
もとは石扉を閉めたあと錠をかけ、
さらに入口を切石で塞ぎ、
全面漆喰で塗り固められていました。

"西室"には王子や王女などに限られた
王族が眠っています。

中央の墓室"中室"
玉陵の時代は棺を墓室内に安置し、
何年か経て次の葬送の際に"洗骨"、
王・王妃・世子・世子妃は東室に、
ほかは西室に移葬したのです。

ただ"中室"にも一基の厨子

本来ならばあるはずのない厨子が、
こんな いい伝えが残っています。

「むかし、木田大時 (ムクラウフトゥチ)
 という超能力者がいた。
 あるとき病気になった首里の
 王子をたすけるために、
 超能力にたよることになり、
 木田を城によびよせた。

 亡霊のしわざと思った木田は
 霊を追いはらい、
 王子の病気はすぐに良くなり、
 よろこんだ王様は大時の称号をあたえた。
 しかし、木田をねたむ者があらわれて、
 木田をためすことになった。

 箱の中にねずみを入れて、
 その数をあてさせようとしたのだ。
 木田は3びきとこたえたが、
 入れたのは1ぴきだった。

 役人は木田を人をたぶらかすウソつき
 として処刑することにした。
 がっかりした王様は、
 念のため箱をあけてみると、
 ねずみは子どもを産んで
 木田のいうとおり3びきになっていた。
 あわてた王様は、
 死刑をやめさせようと
 城から旗をふって知らせたが、
 役人は、これを急げとかんちがいして、
 木田を処刑してしまった。
 無念に思った王様は、
 王家とは無縁の木田の遺体を
 異例のこととして玉陵に葬ったと
。」

現在でも子孫にあたる人たちが
沖縄の墓参り行事"清明" シーミーになると、
玉陵にお参りに訪れるそうです。
また、南城市にある木田大時の屋敷跡
拝所として大切に管理されているとか。

沖縄戦が始まった1945年8月、
山川陵を日本軍が使用することになり、
同陵内の遺骨は仮に玉陵の
墓前の庭に移されたそうで、
戦後さらに西室に移されました。

《玉陵を探索する米兵》1945年
モノクロ写真はいずれも
「那覇市歴史博物館 提供」

1950年代の玉陵の姿、
弾痕が生々しい。
こちらは戦後に起きた
尚円王統歴代の陵墓を守る事を
訴えるデモの隊列。
終戦後の1945年から1972年までは、
文化財保護行政についても、
終戦直後から米軍の協力も得ながら
進められたのですが、
戦争で破壊された推薦資産の現況保存、
民間から資金を募るなどとして、
その間設置された琉球政府が、
1954年に沖縄独自の
"文化財保護法"を設置し、
保護や復元整備事業にあたったのです。

「玉陵復原修理工事報告書」に残る
玉陵 第1門の戦前の写真。
奥に番所が写っています。
復元された"東の御番所"には、
出土された平瓦は高麗系
軒丸、軒平、平瓦は明朝系のもの。
高麗系瓦はグスク時代の屋根瓦、
灰色を帯びた平瓦の小片が出土、
明朝系赤瓦は琉球王国時代のもの。
法事の折には国王の控所でしたが、
太平洋戦争直前は2間四方ほどの広さ、
国王葬儀に遺骸などを運ぶ御輿のような
"龕"(がん)などの道具類の保管庫として
使用されていたようです。

2000年に発掘調査、
礎石や建物の周囲の石敷、
便所跡などが発見されました。
西の御番所もあったそうで、
こちらは女性方の控所。
太平洋戦争前まで、
格式のある家柄から
選ばれた御番役が住み込み、
日常の管理をおこなっていました。
驚いたことに、西の御番所の部屋割は、
反転させるとほぼ柱の位置
東の御番所と一致するそうです。
前庭には左手奥の方に一つだけ
ぽつんと石碑が立っています。
戦火で破壊されなかった500年前の
貴重な遺跡 "玉陵碑"です。
石碑には次のようにあります。
『 一、尚真王
  一、尚円妃
  一、尚円の長女
  一、尚真の長女
  一、尚真第五子
  一、尚真第三子
  一、尚真第四子
  一、尚真第六子
  一、尚真第七子
 葬られる資格のあるものは、
 以上の九人。
 この碑文は千年万年に
 至るまでこの場所におくこと。
 もし異議ある者がでたら
 この碑文を見ること。
 碑文に背く者がいれば、
 天に仰ぎ、地に伏して祟るべし。
碑文には長男・次男の名が見えません、
王室内に勢力の対立があり、
廃されたと見られています。
二体の石彫獅子は、1501年(弘治14)に
玉陵が建造されたときにつくられたもの。
戦災で塔上から転落し、
県立博物館に一時保管されていたときの
写真が遺されています。

陵墓に向かって右の塔の上には
玉紐をくわえて玉と遊ぶ獅子
左の塔には子どもの獅子を
愛撫する獅子が立ち、
陵墓を守護しているのです。
高さ1.2mで輝緑岩(きりょくがん)
という硬い石に彫られています。
1977年の玉陵修復完成にあたり、
もとの位置に戻されたもの。

東室の左側は岩が盛り上がったような
形をしていているのですが、
同じくらいの高さに円塔には、
天に向って吠える獅子が鎮座しています。
玉陵ほどではありませんが、
沖縄の墓はとても大きいのです。
理由の一つは火葬ではなく風葬、
遺体を収めた棺桶を墓室に安置するため、
スペースが必要になります。
そして遺体を洗い清める"洗骨"という習わし、
3~5年目に棺桶の遺骸を取り出し、
洗い清めて厨子甕に収めるから。
そして墓が個人墓ではなく、
家族や一族など集団の墓ゆえ、
何代にもわたって使用され、
多くの人々の厨子甕を収納する
必要があるからなのです。
沖縄は1972年の日本復帰まで、
「墓地埋葬法」が
適用されていなかったため、
小規模の墓が山の斜面に
整然と配された光景が、
南部地区を中心に沖縄中に広がっている。
沖縄のお墓事情…
戦後から時を刻んで、
コンクリート造りの墓の劣化が
深刻な状況を迎えているとも。


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