京の冬の旅2023+ 大徳寺 黄梅院
"黄梅院"という名は、
中華人民共和国湖北省にある
黄梅県破頭山東禅寺に
ちなむのだという。
公開中に誘われ…
織田信長が初めて上洛した
1562(永禄5)年に父 信秀の
追善菩提の小庵が始まりとか。
本能寺の変のちは、
主君の塔所としては
小さすぎるとして、
秀吉が大きくするのです。
豊臣政権の五大老を務めた
前田利家が本堂屋根を修復、
菩提寺とするなど
前田家とも縁の深い寺院とか…
1589(天正17)に小早川隆景が、
鐘楼・客殿・庫裏を落成、
"黄梅院"と改められました・
表門左手にある釣鐘は、
加藤清正が朝鮮から
持ち帰ったと伝わるもの。
表門から庫裡、唐門に至るまで、
新緑と紅葉の季節は
特に美しいとされる前庭。
廊づたいに…
かなりの雪が残ります。
書院前庭「直中庭」
書院 自休軒の前に広がる
苔一面の池泉式枯山水庭園とか…。
"じきちゅうてい"と読み、
秀吉軍旗 瓢箪を象った空池、
まさしく豊臣秀吉好みの作庭、
千利休 66歳のプロデュースです。
大徳寺開山 大燈国師の筆"自休"、
「自から立ち止まって
真剣に物事に対すること。
一考すること。」
一度しかない人生 一つしかない私、
失敗したり悔いの
残らない人生であるためにも…
「親がコップで運んで来て下さっても、
飲むのは己なのである。」
扁額の解説にはこう結ばれます。
一休禅師や利休居士の名前は、
"自休"の引用とも伝えられています。
書院「自休軒」
書院は古来住持が書見・手紙などに
使われた部屋ではありますが、
茶を喫する一休みするような
部屋を備えていて、
それを囲えこんでいるのは稀少で、
"囲え込み式書院造"と呼ばれます。
「檀那の間」 西湖図
本堂の襖絵は、雲谷等顔の筆。
毛利家の御用絵師として
雲谷派の祖 桃山四大巨匠の一人。
雪舟の水墨画を手本とし、
大胆な構図の水墨画を多く残しました。
檀那の間は上間の間とも言われていて、
公式訪院の時に使われる住持の対面場。
《山水図》京都国立博物館寄託
室中の"竹林七賢図"
部屋の床は読経が共鳴しやすいよう
全面板張りとなっていて、
両隣の部屋とは"吊り欄間"。
奥の仏壇には
織田信長公の父信秀公、信長公、
豊臣秀吉の母・天瑞寺殿、秀吉公、
秀吉公の妻・高台寺殿、
毛利元就夫妻、輝元公、
小早川隆景公、秀秋公、
毛利家一門、
信長公娘冬姫婿 蒲生氏など、
歴々が祀られています。
「礼の間」は住持が客人との
対面の間で昨今は
「下間の間」とも呼ばれます。
雲谷等顔の"芦雁図"。
雁と葦がみえます。
《竹林七賢図》京都国立博物館寄託
雲谷等顔は毛利家の家来でしたが、
1593(文禄2)年に主君の輝元から、
雪舟が住んでいた
"雲谷庵"を授けられました。
雪舟と等顔は直接の関係はありません…
ただ偉大な雪舟の“後継ぎ”でした。
雲谷という彼の名がそれを伝えます。
黄梅院の庫裡は小早川隆景が
寄進して建てられたもので、
1589(天正17)年 完成の
日本現存 禅宗寺院の最古の庫裏。
本堂北庭「作佛庭(さくぶつてい)」
「佛を作る」ではなく、
自分自身の佛に気づくの意味。
北東に枯山水の滝を表す立石、
南への流れの中に小舟を浮かべ、
本堂前の破頭庭へと連なり…
"三尊石" 不動明王、矜羯羅童子、
制吒迦童子を表し、
前の平らな石は礼拝石は
神仏に祈る心を顕す。
本堂前庭「破頭庭(はとうてい)」
黄梅県破頭山東禅寺に由来します。
武野紹鴎により創建の「昨夢軒」、
"昨夢"は円覚経にある
"生死涅般尚如昨夢"にとる。
"貴人床"となっており
墨跡の大切さを伝える席、
"下座床(げざどこ)"とも言われ、
床の間の重要さを伝えるものとか。
武野紹鴎の娘婿である
今井宗及は"昨夢斎"と号し、
当時 大坂・堺の豪商でした。
「眠蔵(みんぞう)」
室町期の住持の寝室には、
小さく質素な部屋にも、
梅杉戸絵が彩りを添えています。
「晴れて佳し 曇りても佳し 不二の山
元の姿は かわらざりけり」
晴と雲は世相の動き、
喜怒哀楽のさまで、
この一つしかない。
拝観券には"富士丿図 むこの山"…
山岡鉄舟が宮中に仕えていた頃に
詠んだ歌には、富士の姿に己を看、
いかなる時にも不変で
決定(けつじょう)せねばならぬ…と。