"吉野をよくみる"その4 吉野 南朝皇居をたずねる

"南朝皇居"という碑がたつ𠮷水神社へ。
後醍醐天皇は𠮷水神社の書院を
南朝の皇居と定められた地。


天武天皇(673-686年在位)の時代に、
"役行者"によって創建された、
吉水院という修験の寺院がルーツと
伝えられています。

明治時代の神仏分離政策で、
南朝・後醍醐天皇の皇居とした
時期があったことから神社と
なったそうです。

二礼・十七拍手・一拝でお参りします。
古事記にある最初の神「天之御中主神」
から造化三神を含め、
別天津神と神世七代
「伊邪那岐神・伊邪那美神」が
現れるまでの十七の大神への
拝謝を表す"十七拍手"なのです。

明治天皇御製の歌碑
「くにたみは一つ心に守りけり
とほつみおやの神のをしへを」
"明治維新は南朝の確立"とあります。
「南北朝時代は南朝が正統で
北朝は間違っていたが、
皇統統一後は北朝系の皇族が
皇位を引き継いでいる」との言葉を
残していた明治天皇なので?ですが…

𠮷水神社に遺る 後醍醐帝御宸筆
「祈り之文
祈りのことかやうにうけたまり候
返せ人として申候はよろこび入り候
僧正の房にもおなし御事と申され候は
ただいま ちと とりみだしたる事に
申しまいらせ候
以上 かしこ」とある。

後醍醐天皇玉座の手前にも
"南朝皇居"の扁額が掲げられています。

延元元年(1336年)後醍醐天皇が
京の花山院より秘かに吉野に行幸。
吉水院の宗信法印が300名の僧兵を従え、
天皇をここに御迎えしたのです。
後醍醐天皇はこの部屋を南朝の
皇居と定められたののです。
建武の中興と王政復古を願われましたが、
延元四年(1339年)にこの地で
御崩御なされたのです。

「花にねて よしや吉野の𠮷水の
枕のもとに 石走る音」
後醍醐天皇の御製は、
吉水院で御寝の際に歌われたもの。

玉座は桃山式書院で
「祈り之文
祈りのことかやうにうけたまり候
返せ人として申候はよろこび入り候
僧正の房にもおなし御事と申され候は
ただいま ちと とりみだしたる事に
申しまいらせ候
以上 かしこ」とある。

後醍醐天皇玉座の手前にも
"南朝皇居"の扁額が掲げられています。

延元元年(1336年)後醍醐天皇が
京の花山院より秘かに吉野に行幸。
吉水院の宗信法印が300名の僧兵を従え、
天皇をここに御迎えしたのです。
後醍醐天皇はこの部屋を南朝の
皇居と定められたののです。
建武の中興と王政復古を願われましたが、
延元四年(1339年)にこの地で
御崩御なされたのです。

「花にねて よしや吉野の𠮷水の
枕のもとに 石走る音」
後醍醐天皇の御製は、
吉水院で御寝の際に歌われたもの。

玉座は桃山式書院で
帳台構"ちょうだいがまえ"と呼ばれるもの。

上段の間 五畳と下段 十畳で構成、
南北朝時代なのになぜ"桃山式"??
文禄3年(1593)に豊臣秀吉が
南朝を偲んで吉水院を本陣とし、
いわゆる吉野の花見で、
この部屋に約5日間滞在。
秀吉の寄贈により修繕されたもの。
正面右手に正床を用いて、
左手を並んで脇床を使用した
変わった構造となっています。
正面には違棚がないのです。

武家造は正面にある違棚は、
脇棚とされていて、
御所造の特徴がみられます。
上段側に設けた棚は西楼棚、
上下を支えた束に唐草紋様を
細工されていて、
手法としても貴重な遺構です。

正面の障壁画は狩野永徳の筆。



江戸時代まで定着していた
北朝正統論を覆した明治政府、
水戸学の影響を受けて
「南朝を正統」と位置づけました。
皇居外苑の楠木正成像も、
南朝の天皇に忠誠を尽くしたとして、
高い官位が贈られ、
南朝忠臣の神社の多くは、
明治になってからのことでした。

いわゆる「南北朝正閏論」
"せいじゅんろん"と読みますが、
議会や学会で激しい論争のこと。
1911年(明治44年)の
帝国議会の決議を経て、
明治天皇の裁断により
「南朝を正統とし、
北朝をこれに準ずる」という
公式見解が示され、
一応の決着をみたのです。
