京の冬の旅2022 正傅永源院の細川家と織田有楽斎
京の冬の旅 建仁寺 正伝永源院…
もとは正傅院と永源庵の二ヶ寺、
臨済宗大本山建仁寺の塔頭でした。
なぜ二つの塔頭が一つに?
明治新政府が断行した"廃仏毀釈"、
神仏分離政策そして仏教排斥運動へ、
建仁寺領も四分の一程度に縮小を
余儀なくされたのです。
永源庵は無住のため即刻廃寺…
しかし本山の真北にあったため、
堂宇の取り壊しは免れその地に
本山の北東に隔ててあった
正伝院が移ってきたのです。
時は1873年(明治6)のことで、
資料が残っておらず経緯不明で、
運動の激しさを物語っています。
ただ"永源庵"は細川家の始祖以来、
数多くの菩提寺のうち大切な寺院。
霊牌等を一切引き取って整理…
"永源"の名を残すことを希望され
"正傅永源院"に。
"正傅院"の開山は鎌倉中期、
文永年間(1264-1275)に遡ります。
大覚禅師の法嗣である
中国僧 義翁紹仁勅謚普覚禅師による。
祇園花見小路四条下ルあたりでの
開山であったそうです。
天文年間(1532-1555)の戦乱で、
正傅院は荒廃していたのですが、
1618年(元和4)に再興したのが
織田有楽斎その人でした。
1872年に現在地の移ったのは、
京都府による窮民産業所設立のため。
正伝院は境内の建物を放棄し、
寺号のみを残してここ"替地"へ。
織田有樂斎と夫人の墓石は、
1962年になって遷されたものです。
織田有楽斎の墓石と対峙するのが、
肥後藩主 細川家墓所を示す"細川石"。
細川家始祖とされる細川頼春は、
北朝の武将で四国平定に尽力した人、
永源庵の開山の無涯禅師とは、
師壇の縁を結んでいたのだそうです。
細川頼春の次男 細川頼有、
その子 細川頼長も歴代墓所に…
傍に"福島正則並家臣"の木札、
福島正則は賤ヶ岳の七本槍の
筆頭の人でしたが、
石田三成の挙兵後は家康側。
1619年に広島城無断修築で、
幕府に咎められ出家。
その後 信州川中島で病没。
永源庵に住したことの縁で、
妙心寺海福院とに分葬されたのです。
織田有楽斎の嫡孫である
織田三五郎長好、
茶の湯・有楽流を継承し、
茶人として知られた人。
妻子はなく死にあたって、
茶人大名の所持名物のを遺したと、
『織田三五郎遺品分配目録』に
その詳細が記されています。
空風火水地の五輪塔は
"一条関白室"の供養塔。
こちらは織田有楽斎の孫、
方丈には"正傅院"と"永源庵"の
扁額が並べて掲げられています。
次回は茶人 織田有楽斎を綴ります。
"正傅院"の開山は鎌倉中期、
文永年間(1264-1275)に遡ります。
大覚禅師の法嗣である
中国僧 義翁紹仁勅謚普覚禅師による。
祇園花見小路四条下ルあたりでの
開山であったそうです。
天文年間(1532-1555)の戦乱で、
正傅院は荒廃していたのですが、
1618年(元和4)に再興したのが
織田有楽斎その人でした。
1872年に現在地の移ったのは、
京都府による窮民産業所設立のため。
正伝院は境内の建物を放棄し、
寺号のみを残してここ"替地"へ。
織田有樂斎と夫人の墓石は、
1962年になって遷されたものです。
織田有楽斎の墓石と対峙するのが、
肥後藩主 細川家墓所を示す"細川石"。
細川家始祖とされる細川頼春は、
北朝の武将で四国平定に尽力した人、
永源庵の開山の無涯禅師とは、
師壇の縁を結んでいたのだそうです。
細川頼春の次男 細川頼有、
その子 細川頼長も歴代墓所に…
傍に"福島正則並家臣"の木札、
福島正則は賤ヶ岳の七本槍の
筆頭の人でしたが、
石田三成の挙兵後は家康側。
1619年に広島城無断修築で、
幕府に咎められ出家。
その後 信州川中島で病没。
永源庵に住したことの縁で、
妙心寺海福院とに分葬されたのです。
織田有楽斎の嫡孫である
織田三五郎長好、
茶の湯・有楽流を継承し、
茶人として知られた人。
妻子はなく死にあたって、
茶人大名の所持名物のを遺したと、
『織田三五郎遺品分配目録』に
その詳細が記されています。
空風火水地の五輪塔は
"一条関白室"の供養塔。
こちらは織田有楽斎の孫、
後陽成天皇の第九皇子で
前関白 一条内基の養子、
一条兼遐(かねとお)の奥方。
織田長好の妹との縁で、
ここに遷されたのだと思われます。
前関白 一条内基の養子、
一条兼遐(かねとお)の奥方。
織田長好の妹との縁で、
ここに遷されたのだと思われます。
方丈には"正傅院"と"永源庵"の
扁額が並べて掲げられています。
次回は茶人 織田有楽斎を綴ります。