トヨタ王國をあるく②国産車をつくる


豊田喜一郎は、卓越した技術力、
そして時代を読む目を持ち、
不屈の意志で自動車事業への
進出を成功させた人でした。

彼自身の資質と努力、そして…
彼にはお手本がいました。
ほかならぬ彼の父親、
発明王として名高い豊田佐吉

喜一郎は大学卒業後、
佐吉のもとで自動織機の
研究開発に取り組みました。
彼がリーダーとなって
完成させたG型自動織機は、
海外でも高く評価…

世界的な紡織機メーカーの
イギリスのプラット社への、
特許権譲渡契約締結のために
渡英したときに、
自動車工場を訪れたのです。

当時の日本は、
自動車工業はほぼゼロ。
1923年の関東大震災
復興のために自動車が
必要とされつつも、
国内調達に程遠い時代でした。

豊田喜一郎が
自動車研究を始めた頃、
無謀な事業化には、
くぎを刺さされました。
三井や三菱などの
大財閥でも手を出せない…
これは“道楽”だと

織機工場の片隅で、
どう見ても
本業とは関係のない研究が
続けられたのです。

喜一郎はその後工場用地の
確保に動きます…
目をつけたのが、
名古屋の西にある
挙母町 論地ヶ原
そう現在の豊田市です。

農地もないほぼ原野は、
広い敷地を要する
自動車工場の適地。
トヨタ王國のはじまりは、
そんな理由からでした。

「1年で試作車を作る!」
1934年1月の株主総会で
自動車事業進出が決定後、
喜一郎の訓示はコレでした。
設計図すらない、
工場も、工作機械もない、
部品調達のめどもない…

自動車開発部門の
大島理三郎が渡米。
ボーリングマシンや
プレス機などを買い付け、
最新式自動車を持ち帰ります。

実はその頃…対米英の関係が
かなり悪化していました。
軍事的必要性により、
政府は自動車の国産化を
許可制で行うという方針が
示されていました。
“実績”を作らなければ
自動車製造に乗り出せない。
そんなタイムリミット

ただ…
戦時下日本に必要とされたのは、
軍用のトラックでした。
喜一郎が作りたかったのは、
アメ車に対抗しうる乗用車。

トヨタは軍需工場に指定…
工場には軍から監督官が
乗り込んできて、
自由な生産活動は不可能に。

喜一郎の言葉に
こんなのを見つけました。
「どうせやるなら
 世人の一番難しいという
 大衆乗用車を作ってみよう
 という立場から
 やり掛かったのです。」


このブログは「よくわかる 自動車歴史館」の
記事を参考にしました。

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