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はるばる来たぜHAKODATE vol.5 函館の教会~元町カトリック教会

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風見鶏の鐘楼が美しい " 元町カトリック教会 " 1859年(安政6)の開港直後より、 函館元町には領事館や教会が置かれ、 ロシア正教、英国国教会、 フランス経由のカトリック、 アメリカ経由のメゾシスト など… 横浜、神戸、長崎などの開港都市には 見られない独自の風景がありました。 カトリック元町教会は、 安政年間にフランスのカトリック神父、 メルメ・デ・カッション が箱館に、 小聖堂が建てたのがその始まりだとか。 1877年(明治10)に司祭館に隣接し、 聖堂を建設し初代の大聖堂に。 1879年の大火で司祭館は焼失、 ただ1907年(明治40)8月の 大火で聖堂も全焼。 煉瓦造ゴシックスタイル が 1910年に竣工させるが、 町の両岸を海に挟まれ、 津軽海峡から吹く強風… 1921年(大正10)4月にも大火、 煉瓦外壁とステンドグラスを残し、 全焼となった という。 聖堂の修繕と鐘楼の新築、 1924年(大正12)6月に、 焼け残った外壁を活かし完成したもの。 司祭館は1925年に、 鉄筋コンクリート造 で作られたもの。 三廊式の教会堂で ヴォールト天井 。 聖堂の正面右側に 木田保 造による 再建時 鐘楼を配置されています。 聖堂の玄関部が撤去され、 鐘楼が玄関部の役割を担う。 内部カメラNGのためパンフより、 正面祭壇の中央には、 聖櫃(せいひつ) があり、 右に フランシスコ・ザビエル 、 左は 大天使聖ミカエル 。 祭壇下の両側には、 アブラハム がいと高き祭司であった メルキデク に祝福される場面と、 アブラハムが自分の独り子をを 神に捧げようとする場面、 神の愛の印の起源 となった出来事。 聖母マリア と 弟子ヨハネ に見守られて、 十字架上のイエス 。 聖堂の裏手には " ルルドの洞窟 "があるとか… 教会前に 亀井勝一郎生誕地の碑 、 1907年(明治40)に元町生まれ、 函館中学校、山形高等学校、 東京帝国大学文学部に学び、 のちに文芸評論家、 思想家として活躍した人。 碑石には「私の家のすぐ隣は、 フランスの神父のいる ローマカソリック教会堂 であった  その隣は ロシヤ系のハリストス正教会 である。 この二つの会堂は、 それぞれ高さ五十メートルほどの 塔をもっているので、 船で港へはいるとすぐ目につく。...

はるばる来たぜHAKODATE vol.4 新島襄の函館

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新島襄は北海道が好きだった… "自由への入り口" 、 そこまで魅かれたのはなぜか ? 同志社大学 神学部の 本井康博 教授が、 「新島襄と函館」 のなかでこんな括りを されているのを見つけました。 同志社大学の" 函館キャンプ "というのが 今でも行われていて、 在学中に友人に誘われたけど不参加。 こちら2022年12月の集合写真 大学HPより …憂国の思いを抱いた新島襄は、 1864年6月14日、 幕府の禁を犯して北海道・函館より 脱国しました。その時、新島21歳。 「創立者新島の生き方を学び、  同志社を見つめ、  人と人との出会いや触れ合いの中、  自分自身を振り返ろう」 と。 函館港のウォターフロント には、 新島襄ゆかりの案内があり、 迷うことがありません。 碑石には「 新島襄海外渡航乗船之処 」、 渡航とあるが密出国にほかならない。 同志社香里中学生1年生の"聖書" の授業、 1学期は新島襄の伝記をたどるもの、 " 国禁を犯してまでも " という先生の コトバは 同級生なら覚えているハズ 。 碑文は渡米の途上、 香港で作詞した漢詩 「男児決志馳千里  自嘗苦辛豈思家  却笑春風吹雨夜  枕頭尚夢故園花」 とある。 大志を抱き遥か遠くの地へ向かっている。 自ら選んだ辛苦である。 家族のことなどは思っていられない。 しかし、風が吹き、 雨が降る夜には、故郷を夢にみる。 安中藩士の子 として1843年(天保14)、 江戸・神田に生まれた新島襄。 祐筆の家 だったというのだから、 そんな家の子が大それたことを。 開国がなければ家は取り潰しだったやも。 碑が建てられたのは1954年8月、 同志社と函館市が10万円づつ 分担したとか…。 「ひとつには、青年時代に、  窒息状態の藩邸生活や、  不自由な封建体制を嫌って、  自由を求めて函館から…」 本井先生はこう解される。 函館出国の手引きをしてくれた 日本人は3人いたという。 菅沼精一郎、 沢辺琢磨 、 福士卯之吉 。 福士は中でも、沖停泊の ベルリン号 まで、 小舟で運んでくれた人物。 記念碑の背後の海には1980年に 緑の島が埋立造成されたのですが、 橋の名前 "新島橋" は新島襄に因んだ とも。 ひどく慎重で...

はるばる来たぜHAKODATEvol.3 函館の教会~函館ハリストス正教会

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函館にも"元町"という地があり、 高台には南北に教会群が立ち並びます。 シンボルの一つ" 函館ハリストス正教会 "。 箱館開港間もない1859(安政6)に 始まったハリストス正教会の歴史は、 ロシア領事のゴシケヴィッチが 設置間もないの領事館内に 聖堂を建てたことに発します。 その2年後に来日した修道司祭 ニコライ・カサ―トキン により、 3人の日本人が洗礼を受け、 日本におけるロシア正教会の 歴史が始まったのです。 初代の聖堂は、1861年(万延元)竣工… 当時の古写真によると、 ロシア正教会の特徴玉葱型の キューポラを持つスタイルだったとか。 1916(大正5)の秋になって、 煉瓦造平屋で外壁に白漆喰、 先代と同様に 玉葱型のキューポラ 、 ロシア風のビザンティンスタイル で、 10月15日に成聖式がおこなわれてた。 聖堂内はカメラNGなので、 絵葉書より… ヴォールト天井 は外観以上の 広がりを感じさせていました。 イコノスタス と呼ばれる聖障や イコン画が飾られていました。 堂内の床には丁重に織られた 美しい花茣蓙が敷かれていました。 30度を超える熱射のなか、 聖堂の売店の人から、 「北海道なのに暑くてすみません」 大阪は38度なので平気 と伝え、 続けて 京都ハリストス正教会 の イコンを見たことがあり、 「同志社出身なので函館はぜひ…」 と 返すと… 同志社小学生5年生の修学旅行は函館 、 ハリストス正教会を訪れる プログラムがあるとか、 聖堂に入るとき帰る時に、 「静態して見学されるので、  いつも関心しています。  さすが同志社さん」 とお褒めのコトバ。 京都ハリストス正教会のイコン 、 スケールは倍ほどでした。 豊橋ハリストス正教会 とともに、 キューポラと鐘塔がセットです。 ロシア・ビザンティン様式 で、 設計は同教団の輔祭を務めていた 河村伊蔵が担当したと言われています。 河村伊蔵 は 愛知県南知多 の生まれ。 洗礼を受けた後上京、 神田駿河台の正教会の神学校で ロシア正教について学んだ人 。 司祭の仕事を補佐する 副輔祭(ほさい)や輔祭 として、 日本国内に建てられる 正教会聖堂の設計に携わったという、 豊橋ハリストス正教会 はその頃の作。 京都ハリストス正教会 の設計は 京都府技師の 松室重光 さん...