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岡山県北の雄都 津山たび〜津山まなびの鉄道館

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津山になぜ行ったのか?? その訳は… タイガースの日本シリーズ 敗退が決まり 第6戦、7戦の土日が暇暇に、 前から訪れたかったので逃避行。 大阪から津山までは Googleマップ検索すると、 山陽新幹線で岡山駅へ在来線 津山線 、 片道で7,890円かかるがおよそ3時間 。 高速バスだと半額以下の3,350円 、 乗り換えなし3時間余り で着いちゃう… ローカル線の衰退を象徴とも 。 JR高速バスを降りると B'z 津山公演 、 " 稲葉浩志さん凱旋 "の文字がおどる。 津山公演は2017年7月22日に 津山文化センターで開催、 市役所保管の看板を駅前に 2024年9月に設置し" 聖地スポット "に。 駅待合室には機関車が転車台に載った、 扇形機関庫の模型がありました。 1936年に造られた機関車収容線数17は、 梅小路機関車庫 に次ぐ現存二番目の規模。 第5線と第6線、 第11線と第12線の間に、 エキスパンションジョイント なるものがあるそうです。 温度によるコンクリートの伸縮や 地震による揺れの違いを吸収し、 コンクリート建造物を崩壊から 防ぐこと だったようです。 転車台桁は横枕木仕様で 扇形機関車庫が建設される6年前。 1930年に電動牽引機と共に設置、 現在のは1954年製造のものです。 岡山県と津山駅を結ぶ 津山線 は、 全長58.7kmで 単線ローカル 、 非電化でディーゼル2両編成 。 キハ33形気動車 1001 50系客車 を気動車に改造した車両、 1988年に2両が登場した。 オハ50系客車にエンジンを積んで、 気動車に改造したもので、山陰地区で 普通列車に使用されていました。 気動車 のキ、ハは普通車 を意味します。 オハ は車重が32.5~37.5t未満の 普通車に付与される記号…鉄研か!! キハ52形気動車 115 急勾配があるローカル線用の気動車、 強い馬力と両運転台の特徴を生かし 山間地の線区で活躍していました。 晩年当車は 松本駅から糸魚川駅を結ぶ、 大糸線の普通列車 でした。 キハ181形気動車 12 大馬力機関を搭載の特急列車用気動車。 ヘッドマークは "やくも” 、 いまも岡山駅 - 出雲市駅間で 15往復される特急名です。 展示されているのは晩年、 播但線・山陰線など...

岡山県北の雄都 津山たび〜津山と洋学

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近世の江戸情緒漂う商家町、 津山の城東地区に立つ " 津山洋学資料館 "。 洋学とは西洋の学問のことですが、 " 蘭学 "とも呼ばれたのは、 鎖国をしていたので交流のあったのは オランダに限られていたため、 オランダ語を通してしか西洋の学術に 触れることができません でした。 『 解体新書 』は 元はドイツの医学書 、 オランダ語に翻訳されたものをもとに、 日本語に翻訳されたものです。 解剖とは言わず江戸末期は、 " 腑分け "とか" 開臓 "などと呼ばれ、 刑死体の臓器を観察する程度でした。 初めての" 腑分け "は1771年(明和8)、 江戸の小塚原刑場 で実施されたもの 小浜藩医 杉田玄白 と 中津藩医 前野良沢 が 立ち会いましたが、 『 ターフェル・アナトミア』 という 同じ解剖書を持ちよった奇遇に感嘆。 緻密に描かれた解剖図と見比べた玄白、 「 まるで鏡に映したようにそっくりだ 」 と興奮し、帰る道々翻訳することを 決意したのだそうです。 " 津山洋学資料館 "の前に立つ銅像群、 その中で解説の碑文があるのが 宇田川 玄随 (げんずい)先生の像。 玄随は津山藩医・宇田川道紀の長男、 初めは漢方医で蘭学を嫌っていた とか。 25歳のとき幕府医官・ 桂川甫周 や 仙台藩医・ 大槻玄沢 から 西洋医学の正確さを教わり、 蘭方医に転向 した人。 大槻玄沢 や 杉田玄白 らに師事し、 蘭学を修めました。 小塚原の腑分けから21年 津山で初めての開臓 は、 1792年(寛政4) 10月19日の朝 のことでした。 藩主の参勤交代に伴い お国入りした藩医 玄随の願い。 ちょうどこの年、 玄随は10年に及ぶ西洋内科書 『 西説内科撰要 』の翻訳を 終えたばかりだったそうです。 嶋崎周栄、河合玄碩、 丹治隆玄、川嶋修安 、 遅れて 井岡洞安 の5人が 参加を願い出ています。 玄随の弟子だった 町医者・ 田外玄洞 と 高畠道友 も 助手として参加を許されました。 『 町奉行日記 』によれば、 このとき 使った道具は、 玄随が自ら準備した ようです。 ということであれば、 おそらくは玄随の指導のもと、 江戸から持ち込んだ西洋の 解剖学書とも比較しながら、 か...

岡山県北の雄都 津山たび〜旧土居銀行津山支店

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「大正ロマンを感じさせる  ルネサンス調のデザインで  厳格な左右対称」 そんな解説どおりの、 銀行建築を手掛けたのは、 江川三郎八 さん。 擬洋風建築 の第一人者であり、 意匠やプロポーションに共通性が 見られる江川の建築は "江川式" とも呼ばれています。 明治の全国的な学校建築ラッシュの中、 岡山に赴任したばかりの江川は 県下市町村の小学校・幼稚園を 多く設計しました。 土居銀行 は、 西北条郡田邑村(津山市下田邑)の 素封家 (そほうか)だった 土居通信 が 1897年(明治30)設立され、 本店を屋敷内に置きました。 "素封家" とは、位や領地を 持たないにもかかわらず、 諸侯に匹敵するほどの財産を 持つ人のことを指す言葉 です。 1909年(明治42)になって、 この地に移転を機に建設されました。 正面は バロック の意匠が取り入れられ、 華やかな装飾がふんだんに… 「 洋風に擬(なぞら)えた建物 」 という擬洋風建築と呼びますが、 明治の建設当時は "擬洋風" と 言われてきたわけではなく、 昭和になって建築史研究者が、 付けた 研究用語 なのです。 ちなみに1992年の改修で、 観音開きの玄関扉は、 金属製から当初の木製に戻し、 重厚な ケヤキ材 が用いられてました。 擬洋風建築は 「西洋建築の正しい知識を持たない  職人によって建てられた、  奇妙な建築、寄せ集め的な建物」 という低い扱いを受けることもあり、 一段下のものと見られていました。 コンクリートと鉄の現代建築にはない、 印象的なデザインと雰囲気は、 むしろ斬新でお洒落な一面を見せます。 元堂宮大工 の建築技師 江川三郎八、 福島と岡山で手がけた擬洋風建築は、 公共から商業建築まで幅広く、 両県に西洋の風をもたらしました 。 岡山では"江川式建築" と呼ばれ、 岡山県の建築デザインを 特徴付けるまでになりました。 岡山県真庭市にある " 遷喬尋常小学校本館 "。 映画『 ALWAYS 三丁目の夕日 』の 舞台としても知られています。 講堂が好例で圧巻の大空間を創造、 外観には江川式建築を特徴づける バッテンのデザインは、 トラスを意匠化 したもの。 江川自身が名付けた" 江川式小屋...