ハナテンのルーツへ 阿遅速雄神社

"放り出す"で放出 = ハナテン。
大阪人の虎次郎は、
地元なので慣れ親しんだ地名だが、
大阪難読地名でもレベル高。

"学研都市線"と"おおさか東線"の
乗り換え駅として待ち合わせの
列車が往来しています。

駅スタンプのデザインは、
阿遅速雄(あぢはやね)神社。
鴨の阿鋤遅高日子根神が、
国造神として祀られた、
鴨(葛城)からは、
葛城川、曽我川、
大和川を下って石川と合流、
長瀬川(古大和川)を
下って北上し河内湖へ。
その河口が"放出"あたりとか。

ご祭神は阿遅鉏高日子根神、
"あぢすきたかひこね"読む。
そして草薙御神剣御宮である
八剣大神を配し祀る。
阿遅鉏高日子根神は、
大国主命の長男にあたり、
神武東征で、神武天皇が
熊野から大和へ入られる際、
阿遅鉏高日子根神が
八咫烏に姿を変えて先導したとか。
阿遅鉏高日子根神は九州時代の名、
大和へ来られて"迦毛大神"
(かもおおかみ)となったそうです。

昔、新羅の僧 道行が、
熱田神宮からご神体の
草薙神剣を盗み出し、
この地から船で
新羅に逃げようとしたのだが、
難波の津で大嵐に遭遇し吹き戻され、
この河口で嵐の猛威が一層強まった。
道行は畏れ、神剣を河に
投げ捨て逃げ帰った、
放り出した…でハナテン。

本殿前の狛犬の台座に、
"草薙神劔
奉斎千三百年祭記念”
とみえます。

投げ捨てられた神剣は、
この地の里人が拾い上げて、
ひとまず阿遅速雄神社に合祀した。
熱田神宮へ返却されることになったとき、
その神剣に宿る神霊は分霊され
当社に留め祀られ続けたという。

改めてなぜ "ハナテン" なのか?
『鶴見区昔ばなし』の著者、
赤坂敏行さんは5つもの諸説を
紹介されています。
第1に「ハナデ説」。
入江に突出していたため、
鼻出、端出に。

第2は「ハナチデ・ハナチデン説」。
榎並庄から離れていたので、ハナチデ。
「牧場説」が第3の説。
宮殿の外にある
第4が「樋門説」。
古代、大和川の氾濫を防ぐため、
当地に樋門を設け、
不要な水を勢いよく放ち出した。
そして第5にご神剣盗難事件で、
ご神剣を川の中へ放り出した
大阪難読地名でもレベル高。

"学研都市線"と"おおさか東線"の
乗り換え駅として待ち合わせの
列車が往来しています。

駅スタンプのデザインは、
阿遅速雄(あぢはやね)神社。
鴨の阿鋤遅高日子根神が、
国造神として祀られた、
鴨(葛城)からは、
葛城川、曽我川、
大和川を下って石川と合流、
長瀬川(古大和川)を
下って北上し河内湖へ。
その河口が"放出"あたりとか。

ご祭神は阿遅鉏高日子根神、
"あぢすきたかひこね"読む。
そして草薙御神剣御宮である
八剣大神を配し祀る。
阿遅鉏高日子根神は、
大国主命の長男にあたり、
神武東征で、神武天皇が
熊野から大和へ入られる際、
阿遅鉏高日子根神が
八咫烏に姿を変えて先導したとか。
阿遅鉏高日子根神は九州時代の名、
大和へ来られて"迦毛大神"
(かもおおかみ)となったそうです。

昔、新羅の僧 道行が、
熱田神宮からご神体の
草薙神剣を盗み出し、
この地から船で
新羅に逃げようとしたのだが、
難波の津で大嵐に遭遇し吹き戻され、
この河口で嵐の猛威が一層強まった。
道行は畏れ、神剣を河に
投げ捨て逃げ帰った、
放り出した…でハナテン。

本殿前の狛犬の台座に、
"草薙神劔
奉斎千三百年祭記念”
とみえます。

投げ捨てられた神剣は、
この地の里人が拾い上げて、
ひとまず阿遅速雄神社に合祀した。
熱田神宮へ返却されることになったとき、
その神剣に宿る神霊は分霊され
当社に留め祀られ続けたという。

改めてなぜ "ハナテン" なのか?
『鶴見区昔ばなし』の著者、
赤坂敏行さんは5つもの諸説を
紹介されています。
第1に「ハナデ説」。
入江に突出していたため、
鼻出、端出に。

第2は「ハナチデ・ハナチデン説」。
榎並庄から離れていたので、ハナチデ。
「牧場説」が第3の説。
宮殿の外にある
馬の飼育場を放出と呼んだ。
第4が「樋門説」。
古代、大和川の氾濫を防ぐため、
当地に樋門を設け、
不要な水を勢いよく放ち出した。
そして第5にご神剣盗難事件で、
ご神剣を川の中へ放り出した
からとの説。

宮司は第6の説を唱えられる、
古大和川渡し場説
もあると言われるそうです。
昔、古大和川には橋が
架かっておらず橋の渡し場が
設けられていて"放ち手の渡し"、
舟が出るので、
早く手を放しなさいとの意。
今は"古大和橋"という橋が
近くに架けられています。
明治に入った頃に、
近くの薩摩屋敷から
移設した重厚な門。
神社は旧街道に面していて、
高野山をめざす中高野街道は、
八剣大明神にちなんで、
"剣街道"の名でも
親しまれてきたそうです。

左手にある社号標石は、
江戸時中期の学者が
並河誠所(なびかせいしょ)、
よくわからなくなっていた
近畿地方の式内社の場所に、
目印となる石碑を建てることを
計画したものの一つで、
誠所の弟子が建れたもので、
そのひとつがこの石碑。


今は枯れているが"菖蒲神池"、
仁徳天皇が病に倒れたとき、
夢枕に阿鋤遅高日子根神が立って、
こういった。
「宮の東にある
神池の菖蒲を供えて祀れ。
さすれば病は必ずや
治癒するであろう。」
天皇は、神池の菖蒲を
刈り取ってきて祀ったという、
病は嘘のように消え去った。

今でも菖蒲刈祭が行われという、
神前に供えられた菖蒲を頂いて、
軒先に掲げて無病息災を
祈った風習が全国に広まったと。

神社裏手にある"放出会館分館"、
船をイメージしたような形。
河口の高台に鎮座する
神社だったことから
"浦明神"とも称されそうだが、
それに因んだのかは…謎。

宮司は第6の説を唱えられる、
古大和川渡し場説
もあると言われるそうです。
昔、古大和川には橋が
架かっておらず橋の渡し場が
設けられていて"放ち手の渡し"、
舟が出るので、
早く手を放しなさいとの意。
今は"古大和橋"という橋が
近くに架けられています。

明治に入った頃に、
近くの薩摩屋敷から
移設した重厚な門。
神社は旧街道に面していて、
高野山をめざす中高野街道は、
八剣大明神にちなんで、
"剣街道"の名でも
親しまれてきたそうです。

左手にある社号標石は、
江戸時中期の学者が
並河誠所(なびかせいしょ)、
よくわからなくなっていた
近畿地方の式内社の場所に、
目印となる石碑を建てることを
計画したものの一つで、
誠所の弟子が建れたもので、
そのひとつがこの石碑。

右手には
伊勢参りの"お蔭灯篭"も残る。
建立は1868年(慶応4、明治元)。
伊勢参りは時代を超えて
庶民を魅了したそうです。
60年に1度の周期で、
"おかげ参り"が大ブーム。
放出村でも世話人を立てて、
お伊勢参りが盛んだったそうで、
無事旅から帰った後、
感謝の気持ちを込めて奉納、
大阪市内唯一確認のお蔭灯篭。
伊勢参りの"お蔭灯篭"も残る。
建立は1868年(慶応4、明治元)。
伊勢参りは時代を超えて
庶民を魅了したそうです。
60年に1度の周期で、
"おかげ参り"が大ブーム。
放出村でも世話人を立てて、
お伊勢参りが盛んだったそうで、
無事旅から帰った後、
感謝の気持ちを込めて奉納、
大阪市内唯一確認のお蔭灯篭。

今は枯れているが"菖蒲神池"、
仁徳天皇が病に倒れたとき、
夢枕に阿鋤遅高日子根神が立って、
こういった。
「宮の東にある
神池の菖蒲を供えて祀れ。
さすれば病は必ずや
治癒するであろう。」
天皇は、神池の菖蒲を
刈り取ってきて祀ったという、
病は嘘のように消え去った。

今でも菖蒲刈祭が行われという、
神前に供えられた菖蒲を頂いて、
軒先に掲げて無病息災を
祈った風習が全国に広まったと。

神社裏手にある"放出会館分館"、
船をイメージしたような形。
河口の高台に鎮座する
神社だったことから
"浦明神"とも称されそうだが、
それに因んだのかは…謎。