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三女神宿る 宗像大社へ 市杵島姫神祀る辺津宮

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神宿る島に祀られる宗像大社 … 福岡遠征プラスワン🐯 早起きして訪れました。 博多駅から東郷駅へ およそ45分、 JR鹿児島本線ってあるけど大丈夫? って思ったけど、、2004年3月の 九州新幹線が鹿児島中央駅まで 繋がったことで今は細切れ、 並行在来線区間は三セクに… 東郷駅からは西鉄バスでおよそ12分。 バス停で降りると広大な社地、 世界遺産のプレートが掲げられています。 旧官幣大社 である宗像大社 官から幣帛ないし幣帛料を 支弁されるのが官幣大社で、 GHQにより制度が廃止されたもの。 大きな石に刺さった竹筒から出てくる手水舎。 本殿前の石碑には" 皇族下乗 " 大和朝廷による国家祭祀をおこない、 皇室とも縁が深いお社。 上皇上皇后、天皇、秋篠宮、三笠宮など、 ご参拝されており表紋は"菊の御紋"。 総社である辺津宮(へつぐう)の主祭神は、 市杵島姫神 (いちきしまひめのかみ)、 宗像三女神の末女真にあたり、 長女神の 田心姫神 (たごりひめのかみ)が 沖津宮(おきつぐう)、 次女神の 湍津姫神 (たぎつひめのかみ)が 中津宮に祀られています。 沖津宮は玄界灘の真っ只中、 沖ノ島は絶海の孤島 で、 辺津宮より神職が10日交代で たった一人で奉仕されています。 住人はなく、女人禁制など神聖な島、 島全体が宗像大社の境内地、 御神体島であり続けています。 拝殿には伏見宮貞愛親王書の" 神勅 " 汝三神(いましみはしらのかみ) 宜しく 道中(みちなか)に降居(くだりま)して 天孫(あめみな)を助け奉りて 天孫に祭(いつ)かれよ 『日本書紀』にこうあります 「筑紫の国に降り、沖津宮・中津宮・  辺津宮に鎮まりなさい。  そして歴代天皇のまつりごとを助け、  丁重な祭祀をうけられよ」 。 大宮司 宗像氏貞 によっての本殿再建は、 1578年(天正6年)のことですが、 大宮司家は途絶えましたが 小早川隆景によって1590年に再建… その後は、 福岡藩主 黒田氏 によって 代々修理費用が賄われたとか。 五間社流造、こけら葺の社殿。 中央の大きな楠の木は、 秩父宮殿下によるお手植え 。 本殿を囲んで 二十二の末社 には、 121の神々が祀られています。 現在の社殿は延宝3〜4年の 江戸時代後期に整備されたもので、 古

柳川を征く〜戸島家住宅

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柳川旧城内地区の西端の一角に、 旧柳川藩士の隠宅 戸島邸。 柳川藩で中老職の要職に就いていた 吉田兼儔が隠居後の住処。 庭園と共に建築した葦葺二階建ての建物は、 後に藩主の立花家に献上されたもの。 数寄屋風の意匠を持つ葦葺屋根の建物、 堀割から水を引き入れた池は、 国の名勝庭園に指定されています。 6畳の玄関 外廊下より "なかのま"へ "なかのま"の西面の戸 李白の漢詩「獨酌」  春草如有意 羅生玉堂蔭  東風吹愁来 白髪坐相侵  獨酌歡孤影 閒歌面芳林  長松爾何知 蕭瑟爲誰吟  手舞石上月 膝横花間琴  過此一壺外 悠悠非我心 とある。 春の草は、さながら、心あるが如く、 《楚辞、九歌、少司命》にいう 玉堂の陰に羅列して生じ、 眼前の景色は、極めて長閑である。 しかも、東風は、 愁をともなって吹いてくる、 白髪は、知らぬ間に我を侵すので、 この時、この愁を消遣するには、 酒が第一である〜〜そんな漢詩らしい。 そしてこう続く… しかし、どうあれ、酒あればこそであり、 この酒は自分の命であって、 この一壺の外は、 萬物は悠悠としてあるのは、 我が心を解せぬものばかりである。 仏間には 張謂の「湖中對酒作」の一節  眼前一樽又長滿 心中萬事如等閑 が刻されています。 「目の前にある一つの酒つぼはまた、  いつもいっぱいに酒をみたしている。  こうして心の中には何もかも、  一つも気にかかるものが  なくなってしまったようだ。」 主はよほどの酒好きだったのだろうか。 座敷竹欄間 茶室東面 竹柱、竹の落し掛それに 三日月の竹下地窓など、 中国の竹林七賢人への憧れか。 茶会の待合いでもある入側、 中秋の名月には縁側は、月見席に。 座敷南側西の杉戸絵 中秋に似合う秋草、薄、萩など 襖の中央に、障子がはめ込まれている。 ユニークな意匠もあちこちに。 違い棚にも竹が使われ、 違い棚の上部は神棚が祀られる。 「古柏行」という杜甫の漢詩 こちらは屋内にある杉戸絵なので、 キレイに遺されています。 福岡県の1931年に実施調査によると、 建築は古く寛政年間(1789~1800)とされ、 庭園の石碑や建造物、古文書の調査から 1828年(文政11)の建築と考えられています。 主座敷から広縁越しに眺める池泉鑑賞式庭園。 “柳川城堀”の水を引き入れ