和順な華頂山へ 法然上人こと勢至丸


知恩院をゆっくり歩いたのは、
知恩院三門前に立つ"和順会館"に
投宿したことがキッカケなのです。
会館前にたつ"せいし丸さま"の像。

知恩院は大きな寺域を誇っていますが、
今に見られる姿となったのは、
江戸時代に入ってからのこと。
浄土宗に帰依していた家康は、
1608年(慶長3)より寺域を大幅拡張、
伽藍の造営を行ったのです。

1621(元和7)建立の経蔵
二代将軍秀忠により三門と
共に建てられたものです。

内部は非公開なので知恩院HPより、
中央に宋版一切経を納める
経蔵が据えられているそうです。
八天部像の示す方向に
一回りすれば、
5900余帖を読誦するのと
同じご利益が得られる
とか…

御影堂とも大殿とも呼ぶのは、
法然上人の御影を祀ることから。
元々知恩院は、法然の住房跡に建つ
勢至堂と法然廟がある
"上段"のみがその寺域でした。

現在の御影堂は1639年(寛永16)、
徳川3代将軍 家光公によって
建てられたものです。
お念仏の根本道場として、
いまなお堂内にお念仏の声が
響き渡ります。

10日ほど前のテレビで檀れいさん…
長い石段をマスク姿で息を上げずに
"勢至堂"にむかう姿がありました。
先日から膝を痛めていたので、
避けていたにもかかわらず、
方丈庭園の帰りルートにあって、
尋ねることができました。
これも何かの縁かと…

美作国の豪族の子に生まれながらも、
9歳の時に父親を殺された法然は、
引き取られた寺の勧めで比叡山へ…

1175年(承安5)が法然 43歳のとき、
中国浄土宗の僧侶 善導が記した
念仏の教えに感化、比叡山を降りて
東山の住房に身を置おき、
人々に教えを説いたのが始まり。

日本浄土宗の始まりで来年の
令和6年が開宗850年とか…
「私が浄土宗を立てた意趣は、
 凡夫が阿弥陀仏の報土に
 往生できることを示すため」

凡夫(ぼんぶ)とは仏教の道理を
理解していない者、
報土(ほうど)は西方極楽浄土のこと、
法然上人行状絵図』に遺る言葉。

法然上人入滅は1212年(建暦2)1月25日、
弟子達はその住房の側に霊廟を築き、
法然の教えを守り続けたのです。
その後…比叡山の衆徒に襲撃。
1234年(文暦元)には四条天皇から
寺号を下賜、知恩院こと
知恩教院大谷寺が成立するのです。

御廟の手前の拝殿は1710年(宝永7)に
建て添えられた檜皮葺のお堂。

現在の御廟は1613年(慶長18)、
土浦藩主 松平伊豆守信一
寄進を得て改築されたもので、
桃山様式の蟇股彫刻があるとか…

投宿した"和順会館"…
その中庭には希望を持って比叡山に
向かう若き勢至丸の姿をあらわす像…

出生時と岡山から京都比叡山へ
旅立つ時が描かれる…
なかでも景石3石"三尊石"は、
父 時国、叔父 観覚得業、
そして母 秦氏君
が著されています。

昭和天皇から宣下された
徽号が"和順大師"でして、
明治天皇より七〇〇年大遠忌に際し
宣下された"明照大師"についで
七つめの大師号なのです。
お正月の法要"修正会"での
祝聖文にこうあるそうです。

 天下和順 日月清明
 風雨以時 災厲不起 
 国富民安 兵戈無用
 崇徳興仁 務修禮譲

意とするところは、
天下が太平であり、
日も月も清く明らかに照らし、
風や雨は時に叶い、
災害や疫病は起こらず、
国家は豊かで民は安らぎ、
戦争の武器は用いることなく、
人々は互いに仁を尊び
礼儀と謙譲の道を守る。

時を経て2023年新年にあたり、
"和順"な時が刻まれることを
強く願います。

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